メッセージ


聖書箇所
2コリント17:1
12月29日(日)
メッセージ

濱野好邦
説教題:「聖きを全うしよう」
  愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。

与えられている約束とは、「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(2コリント6:16)です。箇条書きにすると1.キリストは私たちの間に住む。2.キリストは私たちの神になる。3.私たちはキリストの王国の民になる。の3項目です。それは、私たちが神の国に受け入れられることであり、常にキリストと共に生きられるということです。
  天と地を創造した全能の神、十字架の死と復活をもって私たちを救ってくださった完全な愛のキリストに結ばれて生きることができるとはこれ以上の喜びはありません。ですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。と促されているのです。
  ヨハネの福音書の2章に水がぶどう酒に変えられた記事がありますが、水瓶の縁まで水が満たされたときに、掬われた水は既に極上のぶどう酒に変わっていたという話です。きよめとは信仰の心が100%満たされることです。信仰が純粋になるということであり、疑いが残るということが信仰の心が汚れていると言われるのです。
  そもそも、私たちが救われて神の子とされたのは、人々に救いの体験を証ししてキリストの福音を広めるためですから、その証人が神への疑念を抱き、キリストの意思に反した行動を取っていては証人としては失格になるわけです。より良き証人としてキリストに仕えていくためには、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うする必要があるのです。
  きよめという言葉に抵抗を感じるクリスチャンが増加しているそうです。特に若年のクリスチャンの間ではきよめの体験を分かち合うことが減ってきています。その結果、教会の中の罪に対する感度が低下し、モーセの十戒に抵触するようなことが起こってしまうのです。男女関係などにおいて聖書の基準を超えてしまうケースがあります。
  「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(1ヨハネ5:3)私たちが神の命令に準拠して生きていくと決断すること、そしてその方向に一歩足を踏み出すことがきよめられることであり、その歩みを全うすることが期待されているのです。
  こういう期待を受けた私たちでした。年末に際して、この一年を振り返り、私たちの信仰生活を反省してみましょう。キリストへの奉仕はどうだったでしょう。家族との愛の関係はいかがでしたか。友人との交わりの中に罪はありませんでしたか。金銭の取り扱いに間違いはありませんでしたか。 おそらく罪は犯さず、完璧なきよい一年だったという人はいないと思います。神様は私たちに悔い改めの機会として、一日、一週間、一ヶ月、そして一年という区切りを与えていてくださいます。この機会を今日信仰を持って受け止めましょう。 「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:7)といわれています。お互いに罪を告白して、赦され、きよめられて、新年に備えましょう。
祝福をお祈り致します。