メッセージ


聖書箇所  私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。
詩篇130:5-6
11月24日(日)
メッセージ

濱野好邦
説教題:「キリストの再臨と神の国を待つ信仰」
 今年は来週の日曜日12月1日(日)からアドベントに入ります。アドベントという のは日本語では待降節と言います。クリスマスを待つ季節ということです。私たち 聖協団はクリスマスに天から降られたイエス様はもう一度私たちの所へ降りてきて くださると信じています。

 キリストの初降臨は私たちの罪の身代わりとして処刑されるためでした。再臨の キリストは全世界、全万物の王である支配者としてお出でになります。再臨によっ て世界は究極の救いを得るのです。人間中心の世界は終わり、神様を中心に、すべ てが生かされる世界が到来するのです。

 初降臨も聖書に約束されたことであり、再臨もキリストの約束に依ることです。 キリストの再臨と神の国の約束に大きく希望を抱く者にされましょう。

1.ヨハネの黙示録22章1節2節
 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊 との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木が あって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をい やした。
「いのちの水の川」
 これは、キリストの再臨によってもたらされる神の御国の都の様子です。水晶の ように光るいのちの水の川、毎月豊かに実を実らせるいのちの木、その木の葉は諸 国の民をいやすということです。いのちの水はイエス様によってサマリヤの女に永 遠のいのちの象徴として紹介されています。
 このいのちの木は、エデンの園のにあったいのちの木です。アダムとエバは罪を 犯したあと、いのちの木から実を食べることを禁じられました。罪の支配の下にあ る限り、永遠のいのちを持つことはできないということです。しかし、イエス・キ リストの十字架の死と復活により私たちは神の国で生きられるようになり、いのち の木から自由に実を食べることができるようになったのです。
 神様の神殿から流れ出る水によって生える木が癒しの薬になる葉をつけるという ことはエゼキエル47:12に紹介されています。いのちの水はどこへ流れていっても健 康と力を生み出すということが強調されています。神の御国には呪われるものは一 切ありません。神様の祝福が満ちているのです。
 これが私たちクリスチャン人生のゴールなのです。今既に私たちは信仰生活の中 で神の御国の恵みを味わっています。それは、試食している、といっても良いこと かもしれません。しかし、やがて私たちはこの輝かしい天の御国で生きられるよう になります。楽しみで心が膨らみます。

2.ヘブル人への手紙12章28節
 私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありま せんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をす ることができるのです。
「神に喜ばれる奉仕」
 イエス・キリストの十字架と復活による救いが実現する前の、昔の人々は処罰さ れないために律法を行いました。しかし、今、私たちは神様の恵みによって永遠不 滅の神の国をいただいています。ですから、この事を感謝して、私たちを愛してい てくださる神様に喜ばれるために、自分から進んで神様の教えに従って生きていき ましょうと促されているのです。
 私たちクリスチャンの生きる動機は、神様に喜ばれるため、人々に幸福をもたら すためです。私もクリスチャンになる前は、自分を喜ばすため、自分が幸せになる ために生きていました。その結果は自分の喜びを失い、自分の幸福も得られません でした。
 自己中心主義という考え方があります。自分が利益を得るということを最上の価 値にする生き方です。しかし、この世の中にあるすべての犯罪の根源は、この自己 中心という考え方なのです。イエス・キリストによって自分の心にある自己中心を 取り除いていただくことが救いであり、きよめでもあります。  イエス様の人生は、神様に喜ばれるため、人類に幸福をもたらすためでした。私 たちは、このイエス・キリストを見上げて生きているのです。イエス・キリストの 生き方を本来の人間の生き方であると信じて、自分もそのように生きていきたいと いう希望を持って生活しているわけです。これが再臨と神の国を待ち望むクリスチ ャンの信仰生活です。

祝福をお祈り致します。