説教題:「成熟を目指して」
一節の「成熟を目ざして進もうではありませんか」は、文語訳の聖書では「全きに進むべし」とあります。信仰生活において成熟を目指して進もう、また全きに進むべし、とある事からわかることはまず出発があるということです。
(1)出発点から先へ進む
クリスチャンならば誰でも出発点があります。1節に「初歩の教えをあとにして」とあります。クリスチャンの出発点において私たちが学んだ初歩の教えとは何でしょうか。
それはまず自分に罪がある事を知り、そのままでは永遠の滅びでが決まっており、自分ではどうしても解決することの出来ないその罪からの救いの為にイエスキリストが十字架上で死なれ、私たちの身代わりとして罪の罰を受けられた。そして三日目に復活された。という基本的な福音です。そして、「死んだ行いからの回心、神に対する信仰…」と続きますが、死んだ行いからの回心とは、罪の悔い改めのことです。
私達の信仰生活の出発点は、福音を信じて、罪を悔い改め、これからずっと神様と共に歩んで行こうという決心の元にスタートしています。そして聖書は、神様を信じクリスチャンとしてスタートした者は、成熟を目指して進みなさいと語っています。
信仰は救いだけが目的ではありません。もちろん救いは信仰を持つ上で一番大切な事かもしれません。しかし、救いだけが信仰の目的ならば、死ぬ直前に信じればいいと考える人もいます。本当にそうでしょうか。それは非常にもったいないことです。
一日でも早くイエス様が自分の罪を十字架上で既に赦してくださっているってことを知り、天国への希望をつかみ、神と共に歩み、神様に頼る生活を送ることが出来たら、そうではない人生に比べてどんなにか喜びに満ちていて、いのちの希望が溢れるものになるでしょう。
ですから私たちは、イエス様を信じて救われただけではなく、信仰生活をスタートし、成熟を目指して前進し続けるところに、尚喜びと、神の愛を体験することができるのです。
(2)今は未完成だということ
私達は、信仰者としてまだ未完成なものです。救われたばかりの人は勿論ですが、救われて信仰生活が長い人であっても神様の御前では未完成なのです。
私たちにとっての信仰の成熟は、一年や二年と言ったそういう短い期間で達成されるものではありません。人生のあらゆる荒波を通され、自分の弱さや罪深さに直面したり、もうイエス様しか自分にはいない、という極限にまで追い込まれて、神様を見上げた時に力づけられ、希望を見出し、乗り越えていく…そのようなことを人生の中で何回も体験し、その度に神の愛に触れ成熟されていくものです。
(3)指す目標を明確に知る
信仰生活の目標は聖書を通してハッキリと記されています。それは、成熟を目指し、イエス様のようになることです。
成熟を目指す、とただ言われても、どうなることが成熟なのか分からないかもしれません。聖書が示す成熟の最終的な姿とはやはり、イエス様のようになることです。イエス様のご性質を学び、それにならって生きる事が、成熟したクリスチャンになるということなのです。しかし、それも神様の助けがあってこそ、成しうるものです。ですから大切なのは、それが出来るか出来ないかではありません。
イエス様の「わたしを愛するか、わたしについてくるか」と言う招きに「ついていきます!」と「愛します!」と純粋に従っていく応答を神様は待っておられるのです。神様はその信仰の応答を見て、それに応え助けと力を補ってくださるお方です。
愛するイエス様の招きに喜んで応え、成熟へと導かれていく、 そのような2015年でありますように。祝福をお祈りいたします
|