説教題:「愛することを選び取る」
律法の専門家は自分の正しさを示そうとして「では、わたしの隣人とはだれですか」(29節)とイエス様に尋ねます。その反抗的な問いかけに応えて、イエス様は〈善いサマリア人のたとえ〉をお話になります。
一人のユダヤ人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、強盗に襲われ、半殺しにされてしまいました。そこに三人の人たちが通りかかります。最初に通りかかったのは、祭司で、次にレビ人が通りかかりました。祭司もレビ人も、神殿で神に仕える人々でした。しかし、二人とも、傷ついて倒れている同胞を見捨てて通り過ぎてしまいます。しかし、三番目に通ったサマリア人は、倒れているユダヤ人を助けました。手当をしてあげ、宿屋に連れて行って介抱し、宿代を支払い、超過分さえ払うと言うのです。
イエス様はそこまで話された後、律法の専門家にサマリヤ人の行いを指して「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われました。
(1)自己正当化という抜け道
人間は神様がお造りになった存在ですから、本当はどんな人も死にそうな人をみたら、本来は見過ごしにできないという良心をもっているはずです。それでは、何故この祭司とレビ人は、その人を置き去りにしてしまったのでしょうか。たとえば、「自分は急いでいるのだ」と自己弁護をすることによって、面倒な関わり合いを避けるということもあります。あるいは、「どうせ、私には何もできない」と弁解することによって、その人を置き去りにする理由付けをすることもあります。いずれにせよ、抜け道は幾らでも自分の頭の中で作れるのです。祭司やレビ人が「反対側を通り過ぎて行った」というのは、そういう自己正当化という抜け道を通って、良心の痛みを麻痺させ、その人との関わりを避けて通り過ぎてしまったという意味もあるのではないでしょうか。私たちはどうでしょうか。
(2)善きサマリヤ人
倒れているユダヤ人を助けたのは、ユダヤ人から差別され、嫌われていたサマリヤ人でした。この善きサマリア人は、ユダヤ人への憎しみを捨てて、旅人を救いました。33節には、彼を見てかわいそうに思ったとあります。この人は、倒れているのが交際も口を利くこともしないでいたユダヤ人であると分かっていながら、その憎しみよりも彼を憐み、何とか助けたいという思いが心に勝ったのです。自ら犠牲を払って他の人を助ける。これこそ本当の愛だと言えます。自分のことを中心に考えていると人を愛せなくなってしまうのです。自分のことを忘れて、その人のことを真剣に考えることができるということこそが本当の愛なのです。
(3)本当の隣人
律法学者のような、自分の隣人は誰かと捜している生き方と、自分が行ってその人の隣人になるという生き方ではまったく質が違ってきます。自分が行ってその人の隣人になるという生き方は、多くの隣人愛を生み出します。たとえ自分を愛してくれない人に対しても、その人を愛そうとして、例えその人から期待した愛が返ってこなかったとしても、自分さえその人の隣人として生きようとするならば、そこに愛が溢れてくるのです。
イエス様は、私たちの善きサマリア人として、神様に敵対して歩んできた私たちを赦し、私たちに近づき、私たちを憐れんで、聖霊を注ぎ、十字架の血で清め、教会を与え、完全な贖いを約束してくださったのです。このイエス様の救いを知り、その愛と赦しを見に受けて、感謝と讃美に溢れる時、私たちは始めてイエス様の御跡に従う者となること、つまり善きサマリア人に見習う者になることが出来るのです。
隣人を愛するという事は、時に敵をも愛するということです。私達もイエス様の愛を受け取り、隣人を愛する愛を信仰によって選び取る者でありたいと思います。
祝福をお祈りいたします。
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