説教題:「主の祈りを祈るU」
○御国がきますように
「御名が崇められますように」と祈ったら、それに続いて「御国が来ること」を祈り求めなさいと主は教えてくださいました。「御国が来ますように」という祈りは、私たちが生きるこの世界、横に広がるこの地に、神の国がやって来ることを願い求めます。神と私たちの間に貫き通された縦の関係が、この水平の世界のどこにおいても実現していくことを祈り求めるのです。池の水面に波紋が広がっていくように、この地上に神様のご支配が広がって、神様による神中心の、御心にかなう世界が満ち満ちていくようにと願うのです。
○まだ完成していない御国
ではなぜ、私たちは「御国がきますように」と祈る必要があるのでしょうか。それは今この世において、神の御国が完全に実現されていないからです。神様の願う御心がまだこの地上に完成していないからです。
ルカの4章16節からはイエス様がナザレの会堂で預言者イザヤの巻物を朗読された場面です。18節にある油を注ぐという儀式は、王が神に選ばれて任命されたときに行われる儀式です。神に遣わされた王がやってくる時、その支配が始まり、目の見えなかった人が見えるようになり、捕らわれている人には解放、病に苦しんでいる人には癒しが与えられる、ということが語られているのです。そして21節でイエス様は「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とおっしゃいました。つまりイエス様は、イザヤ書の預言を引用して、神が油注がれ、選んで遣わされた王とは私の事である。そしてわたしによってあなたがたが待っていた神の国が今実現し始めているのだ。と語られます。これは、救い主メシアは私だ、とイエス様が公に宣言された一番最初の場面です。
イエス様がこられたことにより、神の支配、御国は始まっているのです。神の国の実現が着々と推し進められ、イエス様を信じ従う人が増えていきました。ところが私たちが生きる今の時代にあっても、神の国の完全な完成は成されていないのです。
神様の御心ではあるけれども、いまだ実現していない事柄を神様の心とひとつになって、求めて祈る使命が私たちには与えられています。
○御国をさまたげているもの
「御国が来ますように!御国が来ますように!」と私たちが祈るのは、御国がまだ完成していない事、そして御国が来ることを妨げているものがあることを知っているからです。
神中心、神のご支配、神の御心が成される事を求めて祈ってはいるけれども、それに反発する力がある為に御国がなかなか来ない、ですから必死に祈ります。しかし、私たちはその祈りの中で神の御国が来るのを妨げている力は悪魔だと思いこんでいるかもしれません。ところが、神の完全なご支配を受け入れないで、自分の支配、自分の願いを実現したいと、いつも計画を立ててしまうのは私たちなのです。
私たちは「御国が来ますように」と祈りながら、悪魔が退くようにと祈るよりも、むしろ、自分自身、一個人において、まず神のご支配、神の御心、神の中心の生き方がなされるように祈り求める必要があるのです。私たちはそこに気が付かなければなりません。
天でなされている神様の御心、ご支配が同じようにこの地でも、また私たち個人の内側においてもなされますように。この祈りで私たちが願うのは、何よりも一番に、私たちが自分の王座から降りることができ、神を王としてお迎えできますように、ということなのです。
この地上において父なる神様を大座に迎え続けたイエス様のように、私たちの内にも神の国が来て、私たちの心に、感情に、生き方に、口から出る言葉に、態度に…神様のご支配と御心が満ちますように。と祈り求める者になりましょう。
祝福をお祈りいたします。
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