説教題:「主体的救い主。イエス・キリスト」
主体と客体ということについて
私たちは神様を主と呼びます。神様は従ではなく、客でもありません。神様は常に主体として活動されているのです。私たちを救うことにおいても神様が主であるのです。神様を「主」にしない生き方が偶像礼拝なのです。自分の思考と行動が神様を主としているか否かは常にチェックされる必要があります。
詩篇31篇14節15節16節
しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。御顔をあなたのしもべの上に照り輝かせてください。あなたの恵みによって私をお救いください。
「100%の信頼」
サタンは私たちの心に不安と動揺を投げ込もうとします。しかし、神様は私たちの心から不安と動揺を取り除いてくださる御方です。私たちが天地の造り主であり、最高権威者である神様から目をそらせるとサタンの思うつぼにはまってしまいます。
私たちの人生を成功させてくださる御方は神様だけだという信仰が私たちに必要なのです。ダビデは、あなたに信頼していますと語って、自分の人生全般を神様の御手にゆだねていることを神様に告白しています。私たちの神様への信頼の度合いが100%に達するときに神様の救いが私たちの心の中に実現するのです。
「私の時は、御手の中にあります」という言葉も、ダビデを囲む厳しい状況は完全に神様のご支配の中にあるということをダビデが受け入れていることを物語ります。その信頼が、ダビデの心に平安をもたらしているのです。救いは神様の恵みによる賜物です。私たちの善行の多少には関わらず、神様の愛と約束を根拠にして私たちに与えられるのです。
「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか」とヘブル人への手紙10章23節で信仰の促しを受けています。神様は誠実なお方で、必ず約束を守るお方です。イエス・キリストは私たちが私たちの心と人生のすべてを委せられる唯一のお方です。
イザヤ書12章2節
見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。
ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。
「主は、私の力」
「イザヤ」という言葉は「主は、私の力」という意味です。イザヤはこの12章の賛美の中に自分の名前を織り込んで、神様の愛と恵みを個人的に受けとめて感謝しています。私は、上に掲げた2節の「私」という文字を「よしくに」と読み替えてみました。
皆さんも、今ここで、「私」の文字に自分の名前を入れて読んでみてください。イエス様の十字架と復活による救いと、キリストの再臨による永遠の救いが自分に与えられていることを感謝することが出来るのです。キリストの救いは全世界のすべての人に例外なく与えられているのです。
イザヤが生きた時代はイスラエル北王国がアッシリヤに攻め滅ぼされる直前で、イザヤが天に召された後、120年ほどで南ユダ王国もバビロニヤに滅ぼされてしまいます。しかし、神様はイザヤを通して、イスラエルが回復されること、キリストが生まれること、キリストによって世界が救われること、更に、キリストの再臨によって世界に永遠の救いがもたらされることを告げられました。
イザヤが告げた神様のみことばは、一つ一つみな実現し、預言は成就してきました。今から後は、イスラエルにキリストによる救いもたらされ、キリストの再臨による永遠の神の国が来たらされるばかりになっています。私たちの目の前には困難が山積みになっていますが、キリストがそれを克服させてくださいます。すでに救いを受けた私たちはイザヤと共に「主は、私の力」と叫んで神様の力を賛美するのです。
神様である主による救いに、高い価値があります。主であるお方以外のものからくる救いは意味がないのです。私たちの味方であり、私たちの力となって「主体的」に責任を持って私たちを救い、私たちを助けてくださるキリストを頼りにして信仰の生活をしましょう。
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