メッセージ


聖書箇所

使徒1章8節
聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、
エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人とな ります。」

5月17日(日)
メッセージ

濱野好邦
説教題:「御霊によって補完される人生」
説教要旨:キリストによって補完され、キリストによって生かされていることを知ろう。

私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける、受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。
ガラテヤ5:5-6

 私たちは完璧な存在である神様によって造られました。神様は私たちを神様より少し劣る者として造られました。それは、神様が私たちの中にあって生き、私たちを完全な者にするためでした。私たちは神様の御霊を自分の心の中にもってって生きる時、神様の子どもとして十分な存在となれるのです。

 私たちが御霊様に対して謙遜になるときに、御霊様は私たちを御霊様の愛で満たしてくださいます。私たちが、自分は神様よりも優っていると考えるようなとき、御霊様は私たちの生活から手を引いてしまわれます。私たちは「主よ、お助けください」という祈りで、神様に対する謙遜を表明できるのです。

 私たちが神様に、たよりもせず、祈りもしないということは「私には神様の助けは必要ありません」と宣言しているのと同じです。神様は御霊様によって日夜私たちに助けの御手を伸べ続けていてくださいます。この神様の恵みにはただただ感謝するのみです。

 私たちは、あらゆる面に於いて甚だしい不足があります。祈りが足りません。愛が足りません、謙遜が足りません。みことばの学びが足りません。有り余っているのは罪だけです。その、足りない部分を補って私たちを十分な者として神様の御前に立たせてくださる御方が聖霊様なのです。私たちは御霊様によって補完され神様の子どもとして生きていけるのだということをしっかり心に留めさせて頂きましょう。

マタイの福音書12章18節〜21節
 「これぞわたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。異邦人は彼の名に望みをかける。」

「キリストによる補完」
 マタイはイザヤ書42章の冒頭部分を引用して、イエス様が全世界に癒しと救いをもたらす神様であるキリストですと紹介しました。聖書で言う公義とは、神様による救いのことです。葦そのものも、灯も極めて弱い存在です。しかもいたんだ葦、くすぶる灯心は今にも消滅しそうな状態です。キリストはそのような弱者に御手が伸べられるのです。
 マタイの見ている目の前で、イエス様はパリサイ人たちの批判と敵意のこもった視線を受けながら、生まれつき手の萎えた人の手を癒されました。それを見たパリサイ人たちは具体的にイエス様を殺害する手段を選びに走り出したのですが、マタイは、その癒しの光景が、イザヤ書42章に出ていることに気付いて書きのこしたのです。私たち異邦人もイエス様の救いに期待しています。

 私たちすべての人間にとってイエス・キリストは永遠の希望です。キリストの中に神様の栄光が満ちているからです。イエス・キリストに救いがあり、イエス・キリストに癒しがあり、イエス・キリストに愛と恵みがあり、イエス・キリストに輝く未来があるからです。イエス様は私たちの不足をことごとく満たしてくださる御方なのです。

 私たちはくすぶる灯心、いたんだ葦のような存在です。強さは何処にもありません。しかし、キリストはキリストの中にある無限の力を私たちに与えて、私たちを癒し、私たちを神様の御前に立てる者にしていてまださいます。私たちはキリストの力に補われて生き、私たちはキリストの力に補われて神様の御前で満足な者とされているのです。補いはオギナイと読み。補完されるということです。キリストによって補完され、キリストによって生かされていることを覚えて生きて行きましょう。