説教題:「神の義によって生きる」 説教要旨:自己中心という偶像を捨て、キリストを私たちの心の軸に据えることです。何ごとも神様の恵みとして受け止め、神様への感謝の気持ちを捧げ続けていきましょう。
普通、私たちは、自分が何をしたいのかを優先に物事を考えています。しかし、そこに落とし穴があることに気付きました。私たちの気持ちを優先することはほとんど最善ではないことが多いからです。むしろ、しない方がよいことをしようとしていることが多いということです。
一方、聖書は神様を優先するように私たちを導きます。「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」と教えています。自分の気持ちを優先するより、神様のお考えを優先する方が大事なのです。
自分の気持ちを優先することが偶像礼拝なのです。自分が偶像なっているということです。それは切り捨てるべき自己中心な生き方です。旧約聖書のエゼキエルとダニエルから実例を学んでみましょう。
エゼキエル書20章7節
わたしは彼らに言った。「おのおのその目の慕う忌まわしいものを投げ捨てよ。エジプトの偶像で身を汚すな。わたしがあなたがたの神、主である」と。
「キリストだけ」
エゼキエルはBC.590年頃からBC.575年頃まで約20年間にわたってユダヤで活動した予言者です。エゼキエルの活動中BC.580年頃にユダヤはバビロニヤに滅ぼされ大多数の国民はバビロンに補囚となって連れ去られました。それから7年後のことです。ユダヤの長老たちはエゼキエルの所に神様の導きを求めに来たのです。
ユダヤ人たちの要求は「わたしは決してあなたがたの願いを聞き入れない」と神様から一蹴され、かつ、「おのおのその目の慕う忌まわしいものを投げ捨てよ。エジプトの偶像で身を汚すな。わたしがあなたがたの神、主である」と出エジプトの時の命令を繰り返して、悔い改めを迫られたのです。偶像礼拝という大罪を犯しながら神様に救いを求めてもその願いが叶えられるはずがありません。
神様からの救いはすべての人に向けられていますが、受ける私たち人間の側で果たさなければならないただ一つの責任はキリストを信じるということです。いくら神様が全能でも、キリストを信じない人を救うことはできません。キリストを信じるときに私たちは自己中心という偶像も捨てるのです。二股そのものが大きな罪だからです。
悪魔の最終目標はキリストを私たちの目から隠し、私たちの心をキリストから引き離すという所にあります。悪魔は様々な理由を示して私たちに偶像を礼拝させようとしています。特に「土着の偶像を拝むことは、日本人の習俗だから罪には当たらない」という言葉で惑わそうとします。キリストだけを人生の目標にするという決断は私たちにとって毎朝必要なことです。
ダニエル書3章17節18節
私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。
王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。
「偶像礼拝」
バビロニヤのネブカデネザル王は自分の威光を国内と近隣諸国に示すために、高さ25メートル、幅2.5メートルもの巨大な自分の像を建てました。除幕式には国の内外から高官を招集して像を拝ませたのです。ところが、ユダヤから連行されて来てバビロンで行政官になっていたシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人はネブカデネザルの像を礼拝しませんでした。
それで、ユダヤの青年たちを妬んでいたカルデヤ人たちが三青年をネブカデネザルに告発したので、ネブカデネザル王は三人に詰問したのです。その時の三青年の王への答えが16節から18節に書かれています。この三人は、ユダヤは偶像礼拝をしたためにバビロニヤに攻め滅ぼされたので、絶対に偶像礼拝はしない、と心に定めていたのです。
王の像を拝まないことで燃え盛る炉の中に放り込まれても、主である神様には火の中から救い出す力があるし、仮に奇跡が起こらなくても王の像を拝むことは決してしないと言い切りました。神でないものを神として拝むことは自分のいのちを危険にさらせることなのです。日本では戦前に神武天皇の想像図や天皇の写真等が各家庭に配られ、日本全国で天皇が礼拝されました。
その結果は敗戦で、偶像礼拝で滅びたユダヤと同じでした。日本は7年間にわたってアメリカ軍による占領を受けたのです。私たちは 天皇陛下とご一家を愛しますが礼拝はしません。昭和天皇の人間宣言の後、私の父、庫三は決して神社に行こうとはしませんでした。偶像礼拝の危険性は遠い世界の、遠い昔のことではなく、今の時代の、今の世界にある事なのです。
ダニエル書3章28節
ネブカデネザルは言った。「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。・・・」
「賛美と感謝」
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのユダヤ三青年はネブカデネザルの金の像を拝まなかったので、縄で縛られたまま火の燃えさかる炉の中に放り込まれました。ところが、主である神様が人間の姿になって三人と一緒に炉の中にいたのです。三人は完全に守られて無事に炉から出てきました。
髪の毛が焦げるとか、衣服が焦げ臭いとか、そのようなことは一切ありませんでした。神様だけを礼拝し、決して偶像を拝まなかった三青年は神様によって守られました。偶像と呼ばれる偽物の神は人を救うことはしません。偶像は欲望をあおるだけであり、神様に対して罪を犯させるだけの物なのです。
ネブカデネザルはユダヤの三青年が信じた神様を「ほむべきかな、・・神は御使いを送って・・このしもべたちを救われた」と言って、褒め称えたのです。更にシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神を侮る者はだれでも、その手足は切り離され、その家をごみの山とさせる。このように救い出すことのできる神は、ほかにないからだ」と宣言したのです。
その後この三人はバビロンで豊かな祝福を受けました。偶像礼拝の危険は常に私たちの身の回りに満ちています。この危険から守られるためには、イエス・キリストを高く賛美しながら、常に喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝していることが一番です。
神様の義によって生きるとは、自己中心という偶像を捨て、キリストを私たちの心の軸に据えることです。何ごとも神様の恵みとして受け止め、神様への感謝の気持ちを捧げ続けていきましょう。
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