メッセージ


聖書箇所

詩篇100篇1節〜5節

9月20日(日)
メッセージ

濱野好邦
説教題:「詩篇に見る神様の栄光」
説教要旨:聖書に見る神様の栄光を褒め称え、自分から進んで神様の御心を行ない、神様に喜ばれ、神の子と呼ばれるに値する存在となれるように導いて頂きましょう。

詩篇15篇1節2節3節
 主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。
 正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人。
 その人は舌をもってそしらず、友人に悪を行わず、隣人への非難を口にしない。

「高い評価」
 この聖書箇所をリビングバイブルは「主よ。聖なる山にある神の天幕に行き、身の避け所を見いだす人はだれでしょう。それは、非の打ちどころのない生活を送る、誠実そのものの人です。口が裂けても人を中傷せず、うわさ話に耳を貸さず決して隣人を傷つけたりしない人です」と訳しています。
 きよく、気高く、権威に満ちた神様の前で生きる私たちは、何処までも謙遜であることが求められています。神様が私たちを愛し、神様が私たちの値打ちを高く評価して、私たちの存在を祝福していてくださるように、私たちもお互いに長所を認め合い、お互いにお互いを高く評価して生きていくことが求められているのです。
 正しい歩みはイエス・キリストを模範にして生きること以外にはありません。義を行なうとは、お互いに赦し合うことです。お互いに赦し合う以上の義はこの世にありません。イエス様が実践して証明してくださった究極の義が、私たちに対する十字架の死と復活による赦しということだったのです。
 イエス様が十字架上で息を引き取る前に、ご自分を十字架につけ人たちのために「父よ。彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と祈られました。イエス様は「舌をもってそしらず、友人に悪を行わず、隣人への非難を口にしない」お方なのです。私たちもキリストに見習ってお互いを高く評価して生活し、天の御国に向かって歩んで行くのです。

詩篇66篇18節19節20節
 もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。
 しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。
 ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。

「お祈り」
 神様は私たちの祈りを退けず、私たちの祈りに応えて恵みを注いで下さいます。この詩篇でも作者は、出エジプトの旅とその後のカナン(現在のイスラエル)の土地での祝福に感謝し、神様を崇める礼拝の中で充実した祈りをささげられることに喜びを表わしています。
 私たちは時々、自分の祈りが叶えられるのかどうか不安になることがあります。神様の愛と力への信頼が失われるとそのような気持ちになります。作者はそれを心にいだく不義と呼んでいます。しかし、イスラエル人の間では出エジプトの出来事を思い出すことによって神様の愛と力がよみがえってくるのです。
 聖書は、私たちの心に神様の愛と力への信頼を呼び起こします。ですから、毎日聖書を読んで新鮮な信仰を神様に捧げていくことがとても大事なのです。私たちは聖書によって神様につながり、聖書によって神様の愛と力をいただいているからです。
 祈りの結果、神様が私たちに与えてくださる最大の恵みは、私たちのころに平安を授かるということです。愛されている平安、赦されている平安、守られている平安、未来が開かれている平安です。どんな局面がきてもキリストと共に乗り越えていけるという自信と確信を持って生きられるということです。

詩篇97篇6節7節
 天は主の義を告げ、すべての国々の民は主の栄光を見る。
 偶像に仕える者、むなしいものを誇りとする者は、みな恥を見よう。すべての神々よ。主にひれ伏せ。

「主の栄光」
 新約聖書も旧約聖書もイエス・キリストを証言する書物です。聖書記者は聖霊様の感動と促しを受けて、救い主キリストによる世界の救いを告げています。神様の権威が地に落ちてしまったように見えた時期にも記者たちははるか未来に予定されていた世界の救いと御名の栄光とを語り続けていたのです。
 主の義と主の栄光は、天から降った神の御子イエス・キリストの十字架と復活によって全世界に現わされました。それは、キリストが全世界の全ての人に、神の子とされる道を拓いたということです。御子を信じる者には神の子とされる特権が与えられたのです。
 偶像に仕える者とは、創造者である御父以外のものを礼拝する人たちのことですが、単にそれだけではなく、自己中心を基礎にする欲望の赴くままに生きている人たちのことです。むなしいものを誇りとする者とは、富や名声のみを追い求めている人々のことです。
 神様との和解、神の子とされる特権という素晴らしい恵みを受けた私たちは、自分の欲望を動機とする生き方ではなく、神様のご期待に添って生きていく者に変えられました。自分から進んで神様の御心を行なう人こそ神様に喜ばれる人であり、神の子と呼ばれるに値する存在であるのです。創造者ご自身であるからこそできた大きな御業です。

詩篇100篇3節4節5節
 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。
 主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。

「主こそ神」
 神様のご栄光を褒め称える賛美の歌です。神様の栄光の根源は万物の創造者であるということです。これを神様の大きなみ業と言います。次は、キリストによる世界の救いです。私たちが新しく造り替えられたので、再創造のみ業です。私たちの信頼している神様は、何もなかったところから全てのものを作り出した創造神なのです。万物の根源です。
 このお方は、最も素晴らしいところは永遠に変わらないということです。神様は慈しみ深く、恵み豊かです。私たちは優しい羊飼いに守られる牧場の羊のように神様の愛情の中で安らかに人生を送ることができるのです。その大庭とは、神様の愛の世界です。神様の愛は、私たちの存在を限りなく祝福していてくださるということです。
 敵意と憎しみ、裏切りとだまし合いの世界に住んでいた私たちは、キリストの十字架の犠牲という、神様の無限の愛に出会い、人生を180度転換させられました。人間の心を造り替えるということは創造者でなければできないことです。新しい人生を与えられた私たちは心から大声で神様の栄光を褒め称えて賛美するのです。
 この詩篇は、神様の愛を根拠とする善さと、神様の永遠性を根拠にする信頼性を私たちに語り告げています。このお方こそ礼拝されるべき神様です。私たちは大きな喜びに心を満たされ、遠慮無く神様の御前に大股で出て行くことができるのです。神様は、私たちが神様の愛の世界に入ることを待っていてくださるからです。

 聖書に見る神様の栄光を褒め称え、自分から進んで神様の御心を行ない、神様に喜ばれ、神の子と呼ばれるに値する存在となれるように導いて頂きましょう。