説教題:「みことばの恵み」 説教要旨:日々、聖書に親しみ、みことばから与えられる神様の愛とキリストの励ましを受けて元気に暮らしましょう。
詩篇119篇71節72節
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。
「痛い目にあう」
このみことばを、リビングバイブルで見ると「結局、神様から懲らしめられたことは、この上ない幸いだったのです。おかげで、はっきり目をおきてに向けることができました。このおきてこそ、山と積まれた金や銀より価値あるものと思えます」と訳しています。私たちには、痛い目にあわないと大事なことを勉強できないという弱みがあるのです。
主の戒め、神様の掟とは、聖書の基本原則と言い換えることができるかも知れません。初めて聖書を手にしたときには、見慣れないカタカナの名前が並んでいたり、知らない地名が次々に出てきたりで読み進むのも困難なほどでした。そして救いとか贖いという言葉の意味も分からなかったのです。
多くの人が、人生の様々な苦しみを経験する中で、自分が神様に敵対するかのような生き方をしていることに気づき、それを悔い改めて、神様の掟に沿って生きるように人生の軌道修正をするのです。それで、苦しみにあったことは私にとって幸せでしたという言葉が出てくるわけです。
その後の信仰生活では、かつては分からなかった聖書の言葉も、登場人物の気持ちも理解できるようになり、神様に対しても人々に対しても謙遜に対応できるようになります。聖書の基本原則がよく分かるようになるので、心底から神様を信じ、神様に従って生きて行こうという決意を持てるのです。苦しみが人を成長させ、神様の試練がクリスチャンを成熟させてくれます。
詩を一つ紹介します。
「キリストを知るためだと分かりました」 水野源三
病に倒れたその時には 涙流して悲しんだが
霊の病いやしたもう キリストを知るためだとわかり
喜びと感謝に変わりました
友にそむかれたその時には 夜も眠れずに恨んだが
とわに変わらない友なる キリストを知るためだとわかり
喜びと感謝に変わりました
過ち犯したその時には 心を乱して悔やんだが
すべてをば 償いたもう キリストを知るためだとわかり
喜びと感謝に変わりました
詩篇119篇79節80節
あなたを恐れる人々と、あなたのさとしを知る者たちが、私のところに帰りますように。どうか、私の心があなたのおきてのうちに全きものとなりますように。それは、私が恥を見ることのないためです。
「恵みによって生きる者」
作者はキリストを知る悟りと、神様のみことばを求めています。そして神様を知り、神様のみことばによって生きている人々との交わりを求めています。更に、自分の信仰が神様のみこころに完全準拠したものになるようにと祈っています。神様の力と神様の恵みによって生きる者になりたいという願いがこもった祈りです。
私たち聖協団には、このように、みことばを祈る、という祈りがあります。聖書のみことばが自分の身の上に実現しますようにという祈りであり、自分の信仰が神様のご期待に添うものになり、また、教会と世界が神様のご期待通りの世界になりますようにという祈りです。
できることなら聖書の教えに縛られずに、自分の気ままに教会生活をしたいと望む人も居れば、クリスチャンの完全を目ざして真剣に聖書の基本原則を求めて祈る人も居ます。気ままな生活からは、自分をふがいなく思う気持ちが生まれ、みことばに頼って生きる生活からは自信が湧いてきます。罪が消えるからです。
みことばを守って生きていると、私のような者は無力ですから何もできません、という言葉は出てきません。みことばに従っている人は、神様の守りと助けがあることを日々経験していますので、困難な仕事にも積極的に対応できるのです。この詩の作者はそういう信仰者になりたいと祈っているのです。私もそうありたいと思います。
詩篇119篇105節106節
あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
私は誓い、そして果たしてきました。あなたの義のさばきを守ることを。
「道の光」
夜中に山道を安全に歩くには、木の根につまずくことなく、崖下に転落することなく、道に迷うことなく、そして、野犬に襲われることの無いように灯火を持つことが必要です。山中の危険は、信仰生活の中にもあります。つまずくとは、神様から離れることです。転落する先は地獄です。聖書で言う滅びとは、普通の日本語で言う迷いのことです。サタンは私たちに襲いかかります。
しかし、灯火を持っているならば山中の危険から身を守ることができます。神様のみことばは正に信仰生活の中にある危険を明らかに浮かび上がらせる光なのです。間違った考え方に捕らわれて異端に引き釣り込まれてしまう人が後を絶ちません。罪を犯して教会に来られなくなってしまう人も多数あります。聖書を読まないために神様から愛されていることが分からないのです。
聖書そのものが私たちの足下を照らす光なのです。正しい道を歩き続けるためには聖書を読み、聖書から学ぶことが欠かせないことなのです。そして、ものごとの判断の基準を聖書に求めることです。それが、みことばの光でものを見るということです。聖書はどう言っているか。聖書はどう教えているか、そのことに注意を払って聖書を読み進むのです。光りがあれば、人は絶望しません。光りがあれば、人は生きられるのです。
106節をリビングバイブルで見ると「私は神様のすばらしいおきてに従います。何度でもそう宣言します」と書かれています。私たちも、毎日繰り返し、更に繰り返して「私は神様のすばらしいおきてに従います」と叫ぶことが必要です。或いは「みことばは、私の足のともしび。みことばは、私の足のともしび」と繰り返して神様に祈ることもとても力になります。
詩篇119篇172節173節174節
私の舌はあなたのみことばを歌うようにしてください。あなたの仰せはことごとく正しいから。あなたの御手が私の助けとなりますように。私はあなたの戒めを選びました。私はあなたの救いを慕っています。主よ。あなたのみおしえは私の喜びです。
「人の歩み」
169節からのこの段落で詩篇119篇は終結します。総まとめのような宣言にも似た詩です。みことばを歌うとは、高らかに神様を賛美するということです。御手とは、神様の実際的な力を表現している言葉です。私の喜びとは、苦難の中で神様のみことばによって癒された喜びです。
詩人は、人の存在意義は神様を賛美することにあると言っています。そして、みことばを離れた人間は、囲いから迷いでた羊が、野獣に襲われ、或いは食物にありつけづ、終に死に至るのと同じようだと、神様に依存して生きている自分であることを告白しています。
私がまだ洗礼を受けてなかったときに神様から与えられたみことばは「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。」(詩篇37:23)です。どのように人生を生きていけばいいか迷っていたとき、このみことばによってクリスチャンとして生きていこうと決断しました。私のクリスチャン人生を開いたみことばです。
洗礼を受けた後、救いの確信を失ったときには、神様は私に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)というみことばで神の子クリスチャンとして再起させて下さいました。
聖書は人生の道しるべであり、聖書は信じる人に命の力を与えます。
聖書が与えられていることに心から感謝いたします。
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