メッセージ


聖書箇所

エゼキエル37章1節〜10節

10月18日(日)
メッセージ

濱野好邦
説教題:「復活の希望」
説教要旨:天に召された先生方、先輩諸兄姉の信仰に倣って、キリストを待ち望み復活の希望に満たされて神様の御国を目ざして進みましょう

今日はエレミヤの30章、イザヤの40章、エレミヤの31章、とエゼキエルの37章から私たちの成すべきことを教えられていきたいと思います。

イザヤ書30章18節
 主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。
「主を待ち望む」
 神様は罪を犯して神様から離れてしまった人が、再び神様の所へ帰ってくるのを待っていると言われています。それは、キリストが正義の神様だからだと説明されています。神様の正義、永遠の正義とは、赦すことなのです。神様の赦しを信じて神様の所へ帰ってくることが神様を信じるということなのです。
 新約聖書のルカ伝15章に放蕩息子の物語があります。農場主の二人の息子はそれぞれ別な形で父親の気持ちを理解せず、二人とも父親との間に溝がありましたが、父親は家出した弟も、不満を抱きつつ父親と共に農場で働いていた兄にも等しく恵を穂与え、大きな祝福をもって迎え入れてくれました。
主を待ち望むとは、キリストの再臨を待ち望むという意味もありますが、大きく解釈すると、神様による解決を待ち望むということです。神様への期待とも言えます。15節に「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」と言われています。
海水浴などで波がくずれた泡の中に入ると身体は水中に沈んでしまうのですが、もがかずに5秒も待っていると泡は消えて人の身体は水面に浮かび上がってきます。じたばたすると状況は悪くなるものです。神様は私たちのために救いを用意して待っていてくださいますので、神様の愛に期待して、主を待つ信仰で生きて行きましょう。神様の力で生かされて生きる人生です。

イザヤ書40章9節10節
 シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。
 「見よ。あなたがたの神を。」見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。
「良い知らせ」
 教会に与えられている最も大きな使命は「良い知らせ」を伝えることです。神様にとって最も大事な人は良い知らせを伝える人です。イザヤが言う良い知らせとはメシヤ=キリストの到来であり、メシヤの受難による世界の救いです。そして、後の時代にユダヤの地に登場するあなた方の神であるメシヤをシッカリ見上げなさいと言っています。
 イザヤがメシヤの到来を予告してからおよそ700年後にメシヤはイエスという名前でユダヤの土地に登場しました。イザヤが語ったとおりに神様の言葉は見事に実現し、世界に救いが与えられました。「神のことばは永遠に立つ」のです。キリストの救いの力は全世界を救ってもなおあまりあります。その力によって私たちも救われました。
 救われた私たちであるからこそ、良い知らせであるイエス・キリストの福音を大胆に証しし、人々に述べ伝えることができるのです。福音を語り、良い知らせを宣教するには勇気と力が必要です。神様は「良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな」と語って激励してくださっています。
 サタンはありとあらゆる手段を講じて、私たちの福音宣教の働きを妨害します。ここで私たちに必用なことが、神様に祈り、神様から力を与えられることです。天地を創造し、十字架で世界を救った神様の力を信頼してこそ、福音を証することができるのです。今日も、私たちを通して福音を聞く必要のある人々が神様によって備えられています。祈ってその人の前に立ち、大胆にキリストを証ししましょう。今年のリトリートでのメッセージで際立っていたことは「牧師よ。伝道せよ」ということでした。

エレミヤ書31章3節4節
 主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。
 それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。
 わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。
「愛と希望」
 エレミヤはユダヤがバビロニヤに滅ぼされ、大多数の国民がバビロンへ捕囚として連行されたころ、その出来事の前後にエルサレムで活動した預言者です。同時期には、ダニエル、エゼキエル、ナホム、ゼパニヤ、ハバクク、オバデヤなど多数の預言者が活発に神様の言葉を語りました。
 神様は、国家の滅亡という大変動の時に、神の民に対して希望を捨ててはならないことを強く語ったのです。その内容は、偶像礼拝におぼれたユダヤは滅ぼされるが、神様はユダヤを再び建て直すというものです。厳しく罪を咎めた神様は、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」と言われました。
 罪を咎めることも、捕囚から解放することも、永遠の愛でイスラエルを愛している神様の愛の事実なのです。神様はご自分を信頼する者に対しては、永遠の愛により、優しく救いの手を差し伸べて下さいます。私たちがそれを受け入れるならば、神様は私たちに最善を与えようとしていてくださるのです。
 神様の愛を受けとめること、これこそ、私たちが神様に対してしなければならない根本的な奉仕であるのです。神様に対して恐怖心を抱くのではなく、神様が私たちを愛して助けようとしているのだと考えることです。神様は、愛によって、私たちを神様のそばにたぐり寄せようとしているのです。

エゼキエル書37章9節10節
 主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。
「聖霊と復活」
 これはエゼキエルに示された、バビロンに捕囚とされていたユダヤ人に関する幻です。捕囚ユダヤ人は干からびた骨のような状態になっていましたが、神様の愛の力が働いて再び神様の民として復活するという内容です。人の心は神様から離れると干からびてしまうのです。私たちの心は神様の愛と恵みによって潤いを与えられなければなりません。
 息とは、聖霊のことです。人の子とは、ここではエゼキエルです。神様はエゼキエルに捕囚ユダヤ人の上に聖霊の注ぎを求めて祈るように命じたのです。そしてその祈りが叶えられて捕囚ユダヤ人に聖霊が注がれ、ユダヤ人は神の民として再び立ち上がることができたという幻だったのです。神様はエゼキエルを通してイスラエルの復活を予告したのです。
 この幻の後、数十年を経てバビロンがペルシヤ人のクロス王によって支配されるようになったとき、クロス王はユダヤ人に対してエルサレムへの帰還を命じました。BC.530年頃からBC.430年頃までの100年間に3回にわたって神様のことばが実現し、滅びたイスラエルが祖国を再建できたのです。エゼキエルが神様の御心を行なったことは意義の深いことでした。
 イスラエルの滅亡と復活は、イエス・キリストの十字架の死と復活を予告するものであり、捕囚ユダヤ人に注がれた聖霊はペンテコステの日の聖霊降臨を予告するものでありました。さらに、そのことは、私たち全ての人間に与えられる聖霊とキリストを信じる者に与えられる復活の恵みを保証しているのです。エゼキエルは捕囚ユダヤ人のために聖霊の注ぎを求めましたが、イエス様は全世界のすべての人に聖霊を満たすキリストとなってくださいました。

 天に召された先生方、先輩諸兄姉の信仰に倣って、キリストを待ち望み復活の希望に満たされて神様の御国を目ざして進みましょう