メッセージ


聖書箇所

詩篇138篇12節〜14節

11月22日(日)
メッセージ

濱野好邦
説教題:「祈りに答えてくださる神様への感謝」
説教要旨:祈りに答え、私たちのたましいに力を与えて強くしてくださる神様に心から感謝しましよう。

 明日は、日本のカレンダーでは勤労感謝の日ということですが、キリスト教会では収穫感謝礼拝として神様に感謝する礼拝が献げられています。私たちも神様の恵みに心から感謝する礼拝を献げさせて頂きましょう。今日も先週に引き続いて詩篇の作者の神様への感謝を学んで、私たちの感謝の気持ちを豊かに祝福されたいと思います。

詩篇75篇2節〜5節
 「わたしが、定めの時を決め、わたしみずから公正にさばく。地とこれに住むすべての者が揺らぐとき、わたしは地の柱を堅く立てる。 セラ
わたしは、誇る者には、『誇るな』と言い、悪者には、『角を上げるな。おまえたちの角を、高く上げるな。横柄な態度で語るな』と言う。」

「神様の最終決定権」
 ここでアサフは神様の最終決定権を高く仰いで賛美しています。「わたしが、定めの時を決め、わたしみずから公正にさばく」というみことばに礼拝する人の心に神様の決定の重々しさを植え付けていく力強さを感じます。神様は、準備が整ったときに行動を起こされるお方です。幼児にとっては、時間の観念を捉えることが難しいのです。「まだ時間ではないよ」という親の言葉も、それがどういうことなのかを把握できません。
 同じようなことで、私たち大人も時間について神様の観点に立つことが難しいのです。願うものごとの全てを、今、叶えてもらいたいと思い、神様のタイミングの方がよいということに気付かないのです。神様は、準備が整ったときに、ご自分の判断で、ご自分が必要と思われることをなさるのです。神様は主権者だからです。
 私たちには、物事を自分の手で決める資格は与えられていません。決定権は神様のものです。神様が最終的な決定を下されます。人を生かすことについても邪悪を裁くことについても、又、その結果についても全ての責任を負われるのが神様だということです。私たちには、神様が最終決定権者として、全ての責任を負っていてくださるということについても心から感謝する必要があります。決して思い上がってはならないのです。
 聖協団には伝統的に「与えられれば感謝、与えられなければなお感謝」という信仰が伝えられています。それは、最終決定権者である神様に全てを委ねて感謝する信仰なのです。私たちもそれを引き継いで信仰生活に励みたいと思います。

詩篇92篇12節13節14節
 正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。

「良い老後」
 この詩篇92篇には「安息日のための賛歌」というタイトルがついています。神様に「感謝します」と言うこと、何者にもまさる神様に賛美の歌をささげることは、すばらしいではありませんか。こんなにも多くのことをしてくださった神様に、感謝せずにはいられません。礼拝することは感謝すること、感謝することは礼拝することという気持ちが私の心の中で大きく育っています。
 ナツメヤシの特徴は200年以上という長い樹齢にあると言われています。長寿は神様の祝福の象徴です。レバノン杉は堅くて強いという特徴が知られている樹木です。高齢者は高齢であるというだけで貴く、また、尊敬される高い価値があります。作者は、神様を信頼する人は、ナツメヤシやレバノン杉のようだと述べて神様を讃えているのです。
 神様を信頼している人は「年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう」と言われていますが、クリスチャンはノンクリスチャンよりも10年ほど長命になっているという統計もあるそうです。年寄りになったということで嫌な感情に包まれてしまうことはないのです。年寄りになれたということを大いに喜び感謝したいと思うのです。
 年寄りの良いところは、多くの経験を重ねて、知識が豊富になっているということです。経験豊かなベテラン、それが高齢者であるので、それを活用しない手はありません。若い人たちは、永年神様に仕えてきた年長者の体験談や意見を聞いて知恵と知識を学び取ることによって信仰の成長が進みます。敬老の日のメッセージみたいですが、神様を信じている人には良い老後が備えられているという話です。

詩篇118篇21節22節23節
 私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ私の救いとなられたからです。家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。

「捨てられた石」
 この詩篇の作者は、キリストの十字架と復活を預言して御父である神様に感謝しています。イエス様はこの22節をマタイ21:42で引用して、ご自分がご自分の民に拒絶されたことと、イエス様が教会の礎石(土台石)になられたことを証ししています。
 捨てられるということほど辛いことはないかも知れません。親に捨てられる子どもがいるし、子どもに捨てられる親もいますが、キリストは捨てられた者としての経験を持ちながら、捨てられた者に同情して、世間から捨てられたような人を拾ってすくい上げてくださる御方です。キリストは捨てられた者の味方です。
 捨てられたお方が、捨てられた人を救うとは本当に不思議なことです。これは、造り主であり、救い主である全能の神様がなさったことであり、生きている人間が味わう全ての苦しみを体験したイエス様であるから、私たちへの同情を惜しみなく与えてくださるのです。
 イエス様は私たちクリスチャンに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と招きの声をかけていてくださいます。自分が傷を負うことを恐れないで、キリストと共に人々に神様の愛と救いを届ける存在とならせて頂きたいと思います。

詩篇138篇1節2節3節
 私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたをほめ歌います。私はあなたの聖なる宮に向かってひれ伏し、あなたの恵みとまことをあなたの御名に感謝します。あなたは、ご自分のすべての御名のゆえに、あなたのみことばを高く上げられたからです。私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。

「祈りに答える神様」
 このダビデによる詩篇は、ダビデが祈った祈りに神様が答えてくださったことへの感謝の詩です。ダビデの祈りは瞬時に聞かれ、祈るとともにダビデの心は神様によって開放されています。天使たちの前でと言われていますが、天使とは神様を礼拝する立場の者です。神様を礼拝している天の御使いの前で、ダビデは高らかに神様の御名を讃えて感謝し、賛美しているのです。
 宮に向かってとは、神様の臨在に向かってということであり、今、ダビデ自身の目の前におられる神様の豊かな恵みと真実を感謝しています。それは、神様の寛容な優しさと誠実さに対する感謝です。つけ加えて言うならば、神様がダビデの落ち度や罪を大目に見てくださっていることへの感謝であるわけです。
 ダビデの祈りに瞬時に答えてくださった神様は、私たちの祈りにも瞬時に答えてくださいます。祈ったことは既に叶えられたと信じる信仰を神様は祝福してくださるのです。祈った後、祈りが聞かれるのか、祈りは聞かれないのかと迷ってはいけないのです。祈りが聞かれることは聖書のみことばによって保証されていることであり、私たちに対する神様の誠実さはここに現われるのです。
 私たちが祈ったその時に、神様は私たちの心に平安を与え、思い患いから解放して勇気と力を与えてくださいます。確かに神様は頼れるお方であり、このお方に出会うことができ、このお方と共に生きることができるとは、なんという幸いでしょう。「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます」感謝してハレルヤと叫ばずには居られません。祈りに答え、私たちのたましいに力を与えて強くしてくださる神様に心から感謝しましよう。