メッセージ


聖書箇所

ピリピ1:19−21

11月29日(日)
メッセージ

大久保 望信
説教題:「天国人の生き方」
説教要旨:天国人としての喜びをもって生活していきましょう。

 ○幸福とは?
「幸福」ということばは、クリスマスの朝に贈り物の包み紙を開ける、愛する人と手をつなぎ散歩する、誕生日にびっくりさせられる、笑い芸人が面白いので羽目を外して笑ってしまう、などといった光景を連想させます。誰もが幸せになりたいと思い、資金を投入し、物を集め、新しい経験を探し求めて、この捕まえ所のない理想を終生追及しています。しかし、もし幸福が私たちの状況に依存しているならば、おもちゃがさび、最愛の人が死に、健康が悪化し、お金が盗まれ、パーティーが終わる時、どういうことになるのでしょうか。多くの場合、幸福は消え去り絶望が始まります。幸福と対照的なのが、喜びです。喜びはもっと強くなって、私たちの人生には神の愛とわざとがあることを、静かに確信をもって保証するものです。すなわち、神はどんなことがあってもそこにいてくれるのです。幸福は出来事次第であるが、喜びはキリストにかかっているのです。

今日は日々喜ぶための3つのポイントを見ていきましょう。

私たちが日々喜ぶ支えとなる1つ目のポイントは
@私たちの生涯を主が導く
ピリピ人への手紙1章6節
1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。
 私たちのクリスチャン生活において、自分がまるで進歩していないかのように感じることはないでしょうか?
 しかし、ここではっきりと、私たちの内に良い働きを始められたお方は、イエス・キリストの再臨の時までその働きを継続し続けてくださっているのです。と書かれています。イエス様が十字架にかかられた時から、私たちへの働きは始められていました。そして今、私たちの内に聖霊様が宿って下さり、日々栄光から栄光へと主の姿に造り変えてくださることを約束しています。
 人は成功した出来事よりも失敗した出来事から。何か平穏な毎日よりは、苦難の中で多くのことを学び体験します。私たちが神様に頼るほか道はないというところまで追い込まれることによって、私たちは信仰が強められ、より完成に近い形へと変えられていきます。それは、私たちはイエス様を信じ、罪ゆるされた者になるだけではなくて、神の似姿に造り替えてくださる主の御手があります。私たちは、その御手に頼りながら、さらに整えられて行きたいものです。

 神は計画したらその計画をかならず完成してくださる方です。自分が勇気を失う時に、神様は見切りをつけたりはしないお方です。もしも、自分が不完全であるとか、自分の欠点に悩まされているのだとしたら神様の約束を思い出しましょう。現在の状況から、キリストを知る喜びが奪われたり、キリストに似た者になることから遠ざからないように意識していきましょう。

私たちが日々喜ぶ支えとなる2つ目のポイントは、
A私たちが置かれる状況を主が用いられることです。
ピリピ人への手紙1章12節〜14節
 1:12 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。
 1:13 私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、
 1:14 また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。


 パウロは自分が投獄されたことにより、イエス様を伝える兄弟たちが、恐れることなくますます福音を語るようになったと言っています。彼らが確信を持つことが出来たのも、福音を広める大きな影響を与えたのも、この投獄の出来事がきっかけとなったのです。また、それだけではありません。パウロが投獄されていた期間に書いた書物は、ほとんど今の聖書の書簡となっているのです。彼は、牢獄の中であっても、主の喜びで満たされていました。自分の置かれた場所を受け入れその中で、神様の栄光を現わすことは何かを考えたからです。

○パウロの情熱
パウロのような立派な信仰を見る時に、私たちはとてもこのような歩みは出来ないと、思うかもしれません。しかし、そこまで彼が情熱を持てたのも主の愛に感動していたからです。なぜなら、彼ほどイエス様の愛の深さを実体験している人はいなかったからです。彼は、以前はクリスチャンを迫害し、福音を伝える今とは真逆の働きをしている人でした。そのような彼が、旅の途中、まぶしい光が照らされ、神様と出会いました。その時に自分の罪の深さを知り、彼の人生ががらりと変わりました。彼は、その時自分がどれほど罪深い人間であることが痛いほど分かったでしょう。しかし、そのような自分に神様がしたこというのは、その罪を裁くのではなく、赦し、神の働きへと任命することでした。パウロは神様の、見捨てない愛を知っているから、そこまでのことが出来たのだと私は思います。

私たちが日々喜ぶ支えとなる3つ目のポイントは、
私たちが励むものは永遠に価値のあることだからです。
 この時パウロが投獄されましたが、最後の投獄ではありませんでした。しかし、彼はそのことを知らず、いつも頭の中には釈放されるか、死刑にされるかの二つしかないと腹をくくっていたことでしょう。
 しかし、彼はキリストが救ってくださると信頼していました。パウロの祈りもそのような恐怖の中でも、キリストのことを語ることが出来るようにという願いだったのです。生きるにも死ぬにも、キリストを崇めることを望んだのです。結局のところ、この後釈放されますが、それから2,3年後また牢獄に入れられることになりました。これ以上は無理だと普通なら考えるでしょう。しかし、パウロの力の源は、キリストの信仰だけなのでした。神を信じない人にとって、この世での生活は、そこにあるものがすべてなので、この世の価値観を励むのは、無理はありません。しかし、パウロにとって生きるということは、永遠に価値のあるものを明らかにしていくことであり、他の人にキリストを伝えることを意味しているのです。そして、キリストだけがすべての観点から、人々が命を見ることを助けることが出来ると信じていました。パウロの生きる目的は、大胆に福音を語ることと、キリストと似た者とされることであったのであったのです。
 私たちは自分自身の生きる運命を受け取らなければなりません。それは、キリストのために生きることです。
 そのことをしっかり握る時に、死を恐れることなく、人生を本当に価値あるものにささげることが出来るのである。

 私たちは、主に新しくされたこの命を喜びをもって歩んでいるでしょうか?
 もしも、喜ぶことが出来ないでいるのならば、妨げとなっていることは何でしょうか?
 私たちはいつも、主が自分の道を導いているということ、私たちが置かれる状況を主が用いるということ、そして私たちが励むものは、永遠に価値があるものだということを忘れず、この信仰生活を歩んでいきたいと思います。
 ピリピ1章27節にはこのようにあります。
 ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。
 私たちは罪ゆるされた天国人として、喜びをもって生活していきましょう。