メッセージ


聖書箇所

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
ヨハネ17:3

1月 3日(日)
メッセージ

大久保 望信
説教題:「永遠の命を与えられている者として、神の栄光を現す。」
説教要旨:この17章はイエス様が十字架にかかられることが間近に迫っていた時に祈った祈りです。最後にイエス様は何を祈ったのか。私たちはよく注意しながらこの箇所を読んでいきたいと思います。

 17:1 イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
 いきなりイエス様は時が来たといわれています。聖書の中に出てくる、「時」という言葉は、再臨の意味が多いですが、ここで言われている、「時」は、十字架にかかられる事です。また、栄光というのは、神さまが持つ威光という意味があります。つまりここでは「十字架にかかる時が来ました。わたしが天のお父さんの威光を現すために、子の威光を現してください。」と祈っています。この祈りの中にイエス様が十字架の死を目の前にしても、完全に従おうとする姿があります。イエス様はそのようにしていつも父の栄光を現そうとしていました。そして、2-3節に続きます。

 17:2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
 17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 ここでは永遠の命を、唯一のまことの神を知ること、またイエスキリストを知ることだと書かれています。

 逆に言えば、私たちは永遠の命を与えられるまで、まことの神やイエスキリストを知らないと言うことになります。確かに人は、産まれてすぐにイエス様を知っているものはいません。それは神と断絶状態にあり、自己中心という罪が継承されているからです。本当は、この地上にいるすべての人と親密な関係を持ちたいと神様は願っておられますがそのことを知ることが出来ません。知るどころか、背を向けて歩み、自ら自分を傷つけるような歩みをしてしまいます。しかし、その関係を回復させるため、イエスキリストという道を用意されました。そして私たちがイエスキリストに出会うとき、目からウロコが取れるように大きく変えられていくのです。
 私たちは光から背を向けてしまうならば、目の前には黒い影が残るだけです。しかし、私たちが振り返り主に向くならば、本当に価値のあることを知り、自分が信じてきた間違った考えや、自分を縛っていたものから解放されていきます。
 つまり、永遠の命というのは、イエスキリストを知っていくことで自分たちの心が癒され、行動や言葉が変えられていくことだということです。パウロもエペソ書でこのようにとりなしています。
 3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
 3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

 イエス様の愛は私たちが生きている間に熟知できるものではありません。ですからいつも主に祈り求める時、主の愛の深さをもっと教えてくださいと、聖なる貪欲さをもって祈っていきましょう。

 さて、11節を読むとこの祈りの中でもうひとつ大切なことが書かれています。
 17:11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。
 この箇所を見た時に、私たちはここでもう一度、イエス様の関心事がなんであったか、またイエス様が弟子たちにおいて何を見つめていたのかを知ることが出来ます。
 それはまず、御名の中に彼らを保つことです。御名というのは、神様の臨在を現します。つまり、主が隣にいることが肌で感じるくらい濃厚に弟子たちが満たされ、彼らを包み、支配するほど力強くふれてくださるようにと願っておられます。それは、イエス様がそうであったからです。
 イエス様がいつも父の御声を聞き、その御心に従順に従ってきました。そのようなうえ渇きをこの弟子たちも持つならば、イエス様がこの地上を離れた後も、弟子たちが福音を語る時そこには喜びがあふれ、たとえ悪魔の攻撃が来たとしても動じなくなるからです。そしてそれだけではなく、それによって弟子たちが一致するようにと願っています。この一致というのが、弟子たちの互いの交わりとって必要な物であり、世に真理のみ言葉を発信し、神の国を求める教会になくてはならないものです。イエス様が以前弟子たちにこのように言われたことがあります。
 ヨハネの福音書13:34
 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 イエス様が弟子たちのために父に願ったことは、彼らが一つになることでした。

 羊飼いは羊の群れが散らされないように群れのために配慮をします。天のお父さんは、御国が崩壊し倒れることのないように配慮をします。そして、イエス様は教会が一致して成立するために来られました。これから弟子たちが教会を作っていくことを知っていたので、形的ではない真に一致した教会が建て上げられるようにイエス様は祈り求めました。悪魔は教会が分裂することを何よりも願っています。悪魔の策略に対抗できることは、教会が一致して主の御心を祈っていくことです。
 教会が一致を失ったら迷っている魂は、どこで互いに思いやることを学ぶでしょうか、教会が赦すことを失ったら、どこで人は心を休めるでしょうか。もし弟子たちが一致し、思いや志向とが、神を見つめることで生まれてくるならば、主の愛が一人一人を満たすようになります。

 なぜ、最後の最後でイエス様が弟子たちの特技が増えるようにとか、もっと伝道するようにとか、もっと素晴らしい奇跡をするように祈らなかったのでしょうか。それは、人が神を知ること、そしてその愛の中で互いが愛し合い一致することというのは、私たちが、また教会が、なによりも優先すべきことであり、この土台がなければ、すべての働きが空しくなってしまうからです。どれだけ素晴らしい奇跡をおこない、何千人もの人に伝道したとしても、主を知り主の愛の中でお互いが愛し合う関係がないならば、主が願っておられることからはずれてしまうからです。

 イエス様はあなたの敵を自分自身のように愛しなさい。と言われました。しかしこれは、イエス様は「愛しなさい」と言われたけれども、「好きになりなさい」とは言われませんでした。好きになるということは必ず感情が先行します。しかし、愛するということは決断が先行します。「その人のことが嫌い!けれども愛します。」という姿勢です。そのように最初は感情が伴わなくても、決断して、その人の必要にこたえようとするならば、必ずそこに和解が生まれ一致が生まれてきます。

 私の実家ではリンゴが名産で、家の目の前にはリンゴ畑が広がっています。道を歩けばここら辺にリンゴが落ちているような場所です。それで、リンゴ農園をやっているところでは、出荷できない傷の入ったリンゴや形の悪いリンゴを無人店という場所に並べて売ります。値段も安くて3個で100円というものもあります。ですから、スーパーとかでは買わずにそのような場所のリンゴをよく買って食べていました。そのリンゴは、見た目形は悪いというだけで味は正規のリンゴと変わりなく、蜜が入っていてとっても美味しいリンゴです。
 私たちも外見や、目に見えること、聞こえてくることだけを見て判断してしまうならば、その人の本当の良さを知ることは出来ません。私たちは人ではなく主を見上げて、隣人を愛すことを決断していくとき、イエス様が何よりも願っておられる教会の本質へと近づいていきます。
 ですから、私たちが、また千葉教会がさらに互いに愛し合う教会、一致して主の計画の御心を祈る教会として成長し、主の栄光を現していきたいと思います。お祈りします。