説教題:「勘違い」 説教要旨:主が自分の罪を赦してくださったように、私たちも赦し合いましょう。
勘違いという言葉があります。
きっとこうに違いない。と思っていたことは実は違った、ということが私たちの身の回りで多くあります。
相手はきっとこういう風に考えているだろうと思っていたら、実は勘違いだったということや、場を和ませようと言った言葉を相手が勘違いして受け取ってしまい傷つけてしまったとか、自分は方向感覚が良いと思っていたけれど勘違いだったとか、自分はかっこいいと思っていたけど実は勘違いだったとか様々です。私たちが勘違いしてしまうことの大きな理由は先入観です。それは、育ってきた環境や、人や本、インターネット、テレビ、あらゆるものから影響を受けて造られていく物で、誰しも知らず知らずのうちに持っているものです。
今日の話は弟子であるペテロの勘違いが出てきます。この個所は、イエス様から弟子たちに赦すことについて教えている場面ですが、イエス様の弟子たちは12人いろいろ個性豊かな弟子たちがいて、特にこのペテロというのが非常にユニークで軽はずみな行動が目立つ弟子です。しかし、私たちはこのペテロが軽い男だったために、どれほど助かっているかわかりません。なぜなら、彼の軽はずみな言葉によって、イエスキリストの無限の愛が引き出されているからです。ここでペテロは一つのことを質問しています。それは、兄弟たちが、自分に罪を犯した場合何度まで赦した方が良いのかという問いかけでした。
21節をお読みします。
18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
実はこの話には背景があります。当時、聖書を教える先生であるラビたちは「人は自分の感情を害する人を3度まで赦す必要がある。」と言われていました。日本でも仏の顔は3度までだというような考えがありますが、このユダヤ社会でも人の罪を赦すのは3度と言われていたようです。ペテロはそのことを知っていたので、あえてここでその数を倍にし1をたして7回と聞くことによって、彼は自分が寛大な弟子としての評価をきっといただけるだろうと、イエス様の優しいほめ言葉を期待していたのかもしれません。しかし、その期待していたこととは裏腹に返ってきた言葉は意外なものでした。22節。
18:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
なんとイエス様は、7を70倍するまでといわれました。7の70倍はいくらでしょうか?490回です。しかし、これは490回赦しなさいということではなくて、どれほど赦したのか数えるのを止めなさいという意味です。確かに、ペテロの言葉は何回までという、数に捕らわれている思いがあります。彼の言葉を言い換えるならば、「イエス様、7回その人を赦したら、あとは赦さなくてもいいんですよね?」ということです。しかし、大切なことは何回赦すことが出来たかではなく、どれだけイエス様を愛して、御言葉に従順になることが出来るのかという視点なのです。
と言っても、やっぱり人を赦すことは難しい。受けた傷が深ければ深いほど赦すことも困難です。イエス様もそのことを知っていたのである例え話を通して、私たちがどのようなものであるのかを伝えました。23-25節。
18:23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
18:25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
聖書の時代、借金を返済できない人は深刻な結果が待っていました。お金を貸した人は、借りた人を拘束することが出来、借金を返済できない場合は土地を売ったり家族が奴隷になって強制的に奴隷として働かせることが出来ました。借りた本人は返せるまで牢獄に入れられることもあったそうです。絶体絶命の窮地に追い込まれてしまいまったこの男は、憐れんでもらおうと主人に交渉します。そして、26-27節です。
18:26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。
18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
なんとその主人は、自分が信用した相手が払うことが出来ない、いわば裏切られたにもかかわらず、そのしもべをかわいそうに思って、しかもその返済期間を延ばすのではなくて、完全に赦しました。しもべは自分の自由や家族、身の危険を心配していたのに完全にその心配から解放されてしまったのです。本当に奇跡が起きた瞬間でした。彼も心から喜んだことだと思います。しかし、この話はこれで終わりませんでした。次の個所を読んでみましょう。28-30です。
18:28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。
18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。
18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
このしもべが主人から赦してもらった帰りに仲間に出会ったとあります。そして、その仲間に100デナリの借りがあることを思い出すと、勢いよく取り立てたわけです。しかし、しもべが主人に借りていた時と同様に、その仲間もその時は払うことが出来ませんでした。するとそのしもべは、何をしたかというと、その仲間が借金を返すことが出来るまで牢に投げ入れたとあるのです。なぜ主人にしてもらったように仲間にすることが出来なかったのかという疑問と、恩知らずなしもべに対して腹立たしい思いすら感じてしまう場面です。当然、このことが主人の耳にも入ってしまいます。31-35節です。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
18:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
18:34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」
結局、一度免れた罰を彼は自らの行いによって、受けることになってしまったのです。ハッピーエンドで終わるかと思いきや、人間の罪深さがここに現れています。
イエス様がこの例え話を用いて語ろうとしておられることは何でしょうか?それはまず、第一にしもべが持っていた膨大な借金が赦されたにもかかわらず、その憐れみを忘れてしまったことです。そして、注目すべき所はしもべが主人に借りた借金の額と、しもべの仲間が借りた額です。彼が借りた額は1万タラントの負債があったと書かれています。この額日本円25億です。当時裕福な地方のガリラヤでも人が一生涯かけて稼ぐ収入は、300タラント、7千500万円と言われています。この額はありえないほどの膨大な負債であり、当時の王様の身代金以上の金額だったそうです。では、しもべが貸していた額はどの程度だったでしょうか?100デナリの負債と書かれていますが日本円でたったの5000円です。自分の負債の50万分の1なので、非常に少額な負債だということです。彼は自分が受けた憐れみをしっかりと自覚する必要があったということです。
第二にここから語られるメッセージは、この二人の負債の差です。
これほどまでに金額の差のある例えをイエス様が話したのは理由がありました。それは、私たちが人から受ける不快なことよりも、私たちが神様に対して犯した罪の方が大きいということなのです。ペテロが犯してしまった勘違い、そして、この多額の負債を抱えたしもべが犯した勘違いは、自分の負債を軽んじたということです。自分の負債を軽んじるということは、イエスキリストの十字架も軽んじることになってしまいます。しかし、はっきり言えることは、神の子であるイエス様が十字架にかからなければならないほど、私たちの罪は重いものだったということです。しかし、そのような私たちに、イエス様は見事十字架の御業を完成しました。決して返済することの出来ない絶体絶命の状態にあった者が、イエス様によって自由にされたのです。イエスキリストの救いは天国チケットをもらえるだけではありません。今を生きる私たちが、イエス様が死にも打ち勝ったように、毎日毎日私たちもすべての災いから打ち勝っていくことが出来るということです。恐れ不安、悲しみ、痛み、全てに勝利することが出来るということです。私たちは一人では到底することが出来ませんでした。しかし、私たちは私たちを強くしてくださることによって、圧倒的な勝利者となることが出来るのです。イエス様を信じても、過去の自分が犯し続けた悪い悪習慣に足を引っ張られることがあります。しかし、私たちがイエスキリストに向き、心から願い求めるならば、イエス様が復活したように、自分を縛る鎖から解放されることを私たちは信じなければなりません。そして、この赦された私たちにイエス様ははっきりと言われました。
18:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」とあります。
イエス様が私たちを赦してくださったように、私たちも赦さなければなりません。そうしなければ、私たちは憐れみを受けたいと願うことすら出来ないのです。自らその権利を拒否することになるのです。
この言葉は厳しいかもしれません。自分たちが神様に赦しを求めることは簡単でも、自分が赦す立場にある時は簡単ではありません。それは自分が相手に傷つけられた傷口が深ければ深いほど難しくなってしまいます。今テレビでもやっていますが栃木で2005年に小学1年生の女の子が殺された事件があります。8年以上たった今、容疑を否認しているということで、まだこの事件に決着のつかない状態です。
他にも、教師による体罰やいじめが原因で自殺をしてしまう子供もいます。ニュースを聞くたび私たちも心が痛む事件ですが、本当につらいのは親御さんです。我が子を失った悲しみは想像もできないほど苦しく、赦すことが出来ないと思います。しかし、そのような心に一番共感してくださるのは天のお父さんです。なぜなら、天のお父さんも自分の愛する子を殺さなければならなかったからです。アダムとイブの不従順から人間には罪が入りました。その人間の身勝手さから、自ら滅ぶ者となってしまったのに、言ってみれば自業自得な結果を招いたにも関わらず、その私たちを見捨てようとせず、代わりに愛する息子を捧げてくださったのです。私たちを赦すために、自分の息子にくぎが打たれることを許しました。人間のために息子を捧げたのに、その人間が自分の息子に罵声を飛ばすことがあっても、息子の体が鞭で何度も打たれても、沈黙をし続けたのは私たちのためなのです。
私たちは、傷つくとき赦すことが出来ないと言うかもしれません。しかし、私たちの気持ちを一番理解して、「本当につらかったね。」と慰めていてくださっているのは、天のお父さんです。
なぜ私たちは赦さなければならないのでしょうか?それは、私たちの罪が赦されたからです。
なぜ、イエス様は十字架で死ななければならなかったのでしょうか?それは、イエス様が死ななければ私たちは助からなかったからです。
まず私たちは、イエス様が犠牲となって罪を赦してくださった十字架を受け取り、今度は私たちの関係の中で、赦していなかった人を赦す者となりましょう。まだいきなりは難しい人は祈ることから始めましょう。私たちの人間関係を通して、神様の愛が溢れていくことが出来るように、そしてその愛がイエス様を証していくことが出来るように歩んでいきましょう。
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