説教題:「支援的に生きる人」 説教要旨:他の人を批判するのではなく、 他の人と協調し、お互いに支援する関係に生きよう。
2:1 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。
2:2 私たちは、そのようなことを行っている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。
2:3 そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。
2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
2:5 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。
1章ではユダヤ人以外のいわゆる異邦人に向けて聖書を読んだことがないとか、神様についての説明を聞いたことがないというようなことは、神様に背を向けているという罪を犯している人の言い訳にはならないということが語られました。
2章では、ユダヤ人といえども、神様を知らない人たちを裁くならば、知らない人たちと同罪であると語られています。裁くという罪が神様に咎められるからです。ある説によると、この部分は、2節 3節 4節そして1節という順番で読まれるべきだと教えられています。いずれにしても、一章に登場する「罪ある人びと」を軽蔑し断罪することの好きな人が、この章では戒められ、厳しく問いつめられています。
神は愛の神ですが、同時に正義の神でもあり人間の不義、不信仰についてうやむやにしたままでは終わらせないお方です。ところが宗教的な優越感を持っている人たちは、彼らを平然と軽蔑し、断罪していながら、よくよく考えると、実は同じことを実行している「同じ穴のむじな」的存在であることがわかります。そして、人を断罪することは、そのまま、神の憐れみ、恵みを踏みにじる行為なのだとパウロは教えています。
つまり、神は、そういう罪人に対しても悔い改めのチャンスを与え、実に忍耐強く、愛の心をもって待っているお方なのです。そういう神に代わって、人間が断罪してしまうことは、自分を神の座につけているのと同じことなのです。
これは、神のことについても、その戒めについても、ぼんやりとしかわかっていない人の罪より深刻なものとなってしまいます。
私たちに届いている神の憐れみは、私たちを悔い改めに導くための大事な要素です。そこには神の慈愛、寛容、忍耐があふれています。しかし、私たちはそれらを踏みにじり、自分を神のような立場に置いて断罪してしまうとすれば、それを言い渡している私たちに深刻な問題が発生します。まさに神への冒涜そのものです。
2:6 神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。
2:7 忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、
2:8 党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。
2:9 患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、
2:10 栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行うすべての者の上にあります。
2:11 神にはえこひいきなどはないからです。
この2章ではパウロはいわゆるユダヤ教を信じているユダヤ人たちに対して語っていると言われています。彼らの特徴は「頑固さ」でした。神が望んでいる事柄をわかっているつもりでいながら、別のことを行い、神による怒りの対象になっているとパウロは言います。
そして、ユダヤ人だけではなく、その他の国々の人たちでも神の喜ぶことを行いながら生きるなら、すなわち、善を追い求めつつ生きるなら、神はその生き方をしている人たちを無視せず、永遠のいのちを与え、逆に、悪を行う人たちはユダヤ人であってもその他の国の人であっても神の怒りがもたらされ、苦しみ悩むことになると言うのです。
神はどの国の人に対しても、えこひいきしないお方であり、善には栄光、誉、平和を、悪を行う者には苦しみと悩みとをもたらす存在なのだとパウロは語ります。
しかし、人間の善悪の判断は文化によって違うことがありますから、単純に、これをしていれば神の祝福を受けられると安易に考えることは危険です。強いて言えば「神が促す善いこと」があるのです。それは、支援的に生きる生き方です。
それを善行といいます。
日本語で「善行」訳されている言葉はギリシヤ語では「憐れみ」ユダヤの言葉では「慈しみ」という意味を持っています。「対人関係の正しさ」が「善行」なのです。批判し、裁くことは人間関係を崩してしまう罪になるわけです。
2:12 律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。
2:13 それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。
2:14 ──律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
2:15 彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。──
2:16 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。
私たちの心には「良心」があります。それによって律法が要求する善と悪ををある程度知ることができ、いわゆる善悪の判断の基準がそれぞれの心の中に存在していることがわかります。神の律法を教えられているなら、善悪の基準はもっと具体的、もっと広範囲にわたって理解できるはずですが、それがなくても、自分の心の中の良心が判断のとき、基準を示してくれるのだとパウロは言います。
そして、律法があるなしに関わらず、神は良い行いを褒め、悪い行いを裁く「義」なる存在であるとパウロは教えています。律法を聞いて知っているということも重要ですが、それを土台に生きるということこそ重要なのだとも教えています。善悪の基準を持つということは素晴らしいことで、何をどうすれば良いのかそれによってわかるようになります。交通ルールなどについてある程度の具体的な基準がないと、自動車がどこをどのように走れば良いのかわかりません。
私たちに取っても、同様です。しかし、私たちの心の問題は深刻で、そういう基準があっても、それを守り抜くことをしたがらないのです。個人的な私生活においても、わかっているのにやらないし、やめないのです。いや、できないのです。いろいろな言い訳を考えながら基準を壊してしまう心を私たちは持っています。
それでイエス・キリストに夜罪の赦しがどうしても必要なことになるわけです。自分の実情を考えてみれば他の人の欠点を数えたてている暇はないわけで、イエス様が私たちに憐れみと慈しみを与えて救ってくださいましたので、私たちもお互いの間に良い関係を築き、お互いに支援する者でありたいと思います。
それは、お互いの不足を補い合う生活です。吹雪の中で負傷した人を背負った人は吹雪を乗り越え、戦場で目を負傷した人が足を負傷した人を背負って無事に兵舎へ戻ることができたという話も聞いたことがあります。他の人を批判するのではなく、他の人と協調し、お互いに支援する関係に生きましょう。
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