メッセージ


聖書箇所

マルコの福音書8章

3月20日(日)
メッセージ

大久保 望信

今日の個所はイエス様が十字架にかかられる前に、その事を弟子たちに話した場面です。イエス様がこの地上に来られたのは、目的があったからです。それは、言うまでもなく福音をこの地上に広めるためであり、神の救済計画を成就するためです。しかし、この時弟子たちの方はその準備が出来ていませんでした。 31節お読みします。

8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。 イエス様はご自分が間もなく死ぬことを彼らに話し、これから起ころうとしていることへの備えを始められました。それは、何度も何度もしきりに弟子たちに語られ、いざそのことが起きた時に、慌てることのないように心の準備をさせたのです。しかし弟子たちはこのイエス様の言葉を最初は理解できませんでした。なぜなら、弟子たちはイエス様が、イスラエルやローマを、いや世界を支配する王であると信じていたので、そのメシヤであるイエス様がなぜ?苦しまなければならないのかと、疑問に思ったことだと思います。イエス様の発言に皆が動揺しました。そしてその中にペテロもいました。32節を読みます。

8:32 しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。 この時ペテロは、イエス様を脇に連れ出して、何を考えたのかイエス様をいさめたと書かれています。マタイの方には、「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」16:22と言いました。ペテロはこの時、神様の目的については全く頭にはありません。ただ自分の人間的な要求と感情をそのまま表してしまいます。なぜなら、ペテロもキリストが王であることを望んでいたのであって、旧約聖書に(イザヤ53章)預言されていた「苦しむしもべ」の姿は望んでいませんでした。それはきっと彼の中に固定されたメシヤ像、王であるイエス様はきっと栄光に輝く方で、人々から苦しみなど受けることもなく、すべての国民を救い、栄冠を与えてくださることを期待していたのかもしれません。

ペテロや他の弟子たちは、イエス様がまことのキリスト、救い主だと期待していたことでしょう。確かにイエス様がまことの救い主であることは間違いがありません。しかし、十字架の上で救いの御業を完成し、人々を救うということは、想像していなかったのです。なのでイエス様をいさめてしまいました。それは、ペテロ達の描く理想とは違ったことの動揺と、同時に弟子である自分たちにもその迫害が及ぶのではないかと恐れたのかもしれません。つまり、彼が受けいれる準備が出来ていたのはメシヤに従うという栄光であって、迫害ではなかったということです。
しかし、クリスチャンの生活は必ずしもご利益があるとか、お金持ちになれるとか、財産的に安心に生活出来るとか、すべての物に満たされた道であるとは限りません。むしろ、み言葉に従おうとすれば従おうとするほど、この世の中で生きていくことが大変です。特に人間関係において、聖書とは違う価値観を持つ人たちとは知恵をもって関わっていかなければなりません。嘘や中傷、陰口、同性愛、他にも聖書の教えていることとは違うことが平気で起きています。その中で生きる私たちは、しばしば、困難な仕事、迫害、喪失、ひどい苦しみを伴うことは実際にあるのです。その事をペテロは知らなければなりませんでした。そして、その様子を見たイエス様が厳しい言葉を投げかけます。

33節8:33 しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 ペテロは多くの場合、弟子たちの代表者として振る舞っていました。なので、イエス様は彼を呼び出すことによって、間接的に弟子全員に語っておられたのだろうと思うのです。イエス様は、皆の持っていた考えを知り下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言われました。ペテロはただイエス様の身を心配しただけのはずなのに、なぜここまでのことを言われたのでしょうか?これまで一緒に旅をつづけあらゆる教えをイエス様から受け取った弟子たちにとって、本当にイエス様は麗しく、尊敬する存在です。なので心の底からイエス様を惜しんだのだと思います。しかしこの時の弟子たちは無意識のうちに、イエス様が十字架にかかられることを阻止していたからなのです。

イエス様はお生まれになってから、十字架にかかられるまで一つの誘惑を受けていたと思います。それは、十字架にかからないという誘惑です。イエス様が成長する過程で、家出をしたり、あるいは目立たないように生きて行ったり、イエス様を訴えた宗教指導者たちのご機嫌をとったりしたならば、自分の命が狙われることはなかったことでしょう。十字架にかかられる前、一言自分はユダヤ人の王ではないと宣言して、今までしたあらゆる奇跡や自分の発言を撤回したならば、きっと十字架にかかることはなかったことでしょう。つまり、イエス様は自分が十字架刑を回避する手段を持っていたということなのです。しかし、前の晩ゲッセマネで祈る時、「わが父よ。出来ますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、私の願うようにではなく、あなたの御心のように、なさってください。」と言われました。イエス様は人間となり、完全な神の子として、主の栄光、主の素晴らしさを証され、完全にしもべの姿をとって父の御心に従順になりました。それは、全世界の人間のため、時代を超え、今を生きる私たちを救うためでした。その御業を弟子たちは阻止しようとしたので、ここまでのことを言われてしまったのです。弟子たちの動機はイエスへの愛と敬意でした。しかし弟子たちの役割はイエス様を導き保護することではなく、イエス様に従っていくことなのです。イエス様はこのようにして完璧にしもべとして父なる神様に仕えられ、人々に仕えました。それは、自分の願いや思いを捨てて、父なる神様の御心を優先しようとする、しもべの心の模範を示されたのです。
そしてそんな彼らに提示したことは、次の有名な個所です。

34節8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
この福音書は、マルコという人物によって書かれていてローマの人たちに書かれたものです。ローマの人々は十字架を負うことの意味を知っていました。十字架は、重罪人に対してローマが用いた死刑執行方法でした。囚人は、ローマの権力に服従することを表明して、自分の十字架を処刑される場所まで運びました。イエス様は、キリストに従おうとする者に究極に従う姿勢を示すために、十字架を運ぶという表現を用いられました。

イエス様は決して楽しいことを否定しているのではありません。また、不必要に苦しむべきだと言っているわけでもありません。イエス様は一瞬一瞬イエス様に従い、働きが困難で見通しが暗い時でも、み旨を行い続けるように命じているのです。弟子たちは、主のしもべとして選ばれて、あらゆる教えを直接聞いてきた者たちでしたが、自分の感情や願いからイエス様が十字架にかかられることを受け止めることが出来ませんでした。あれだけ一緒にいながら、しもべとしての心を持つことが出来ていなかったのです。しかし、人間の弱さというのがこのところに現れているのではないでしょうか?私たちは祝福されたい。救われて喜びに満ち溢れる歩みをしたいと願います。しかし、本当にイエス様に従う時に、まず私たちは自己中心的な自分の考えや願いを捨てなければなりません。
そして、自分の十字架を負うということです。この十字架負うというのは、御言葉に従うと言い換えることが出来ると思います。私たちに与えられた十字架、御言葉を守り行うことによって私たちは、神様に対する従順を現わすことが出来るのではないでしょうか?ヨハネの福音書にはこのようにあります。

ヨハ14:15 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
もしも私たちが神様を愛するのならば、そのみ言葉に歩むはずだと主は言われます。その歩みが主への信仰の表明だからです。自分の願いを持ってはいけないという話ではありません。正しい優先順位を持つ必要があるという話です。主は私たちの必要をご存知です。経済的な必要から、体の癒し、内面の癒しや喜び、平安や力、苦しい状況からの脱出する道などを主はご存知です。なので、主をまず第一にしていくことによって、その他のものは備えられていきます。この御言葉を私たちはしっかりと受け止めていきたいと思います。赦していない人はいないでしょうか?憎んでいる人はいないでしょうか?すべての関係は健康でしょうか?身近な人に対して愛を実践しているでしょうか?自分の口から出る言葉は人を励ましているでしょうか?愛のある言葉を話しているでしょうか?感謝しているでしょうか?喜びがあるでしょうか?私たちはイエス様の愛に応答していく者でありたいと思います。その実践の場を主は身近なところに備えてくださっています。

そして、35節です。
8:35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
私たちが福音のために生きること、神の証人として歩むことというのは、私たちが自分の命を自分の為に使う人生よりもはるかに勝るということです。イエス様は罪と自己満足の生活を送るよりも、ご自分についていくことを選ぶように私たちに求めておられています。イエスは従うことを求めておられますが、自分を嫌悪することは求めていないのです。36-37節

8:36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
8:37 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。
多くの人は満足を与えるものを探し求めますが、この世で得られるものはほんのわずかな時間だけです。しかも自分の命に値するものはこの地上にはありません。主ご自身だけが私たちの命にも勝るお方です。それだけではなく、私たちは主を求める者として造られました。
この地上にあるものは全て神様が想像されましたが、人間にだけ他の動物には与えられなかったものが与えられています。それは、神を意識し、神を礼拝しようとする「霊」です。私たちの中に霊があるので、私たちは神様を感じることが出来、祈ることが出来ます。この霊が与えられているのは人間だけです。犬や猫は食事の前に祈ったりはしないということです。それは、言い換えるならば、神様は私たちと交わるため、愛の関係を築くために霊を与えられたということです。主をいつも礼拝し、主の御言葉に従って生きることこそ幸福の道であるということです。

38節8:38 このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」
姦淫の罪は結婚している人以外の人と性的な関係を持つことですが、まさに今の現代はまことの神様と関係を築くのではなく、自分の中の偶像を心注ぎだして礼拝している者が多くいます。ある人は、お金が偶像になっていたり、自分が偶像になっていたり、物が偶像になっていたりする人もいるでしょう。そのような、神様以外と関係を深め、自分を正当化し、罪を犯し続ける時代にあって私たちはどのようにしていくべきなのでしょうか?
それは、主の御言葉を飢え渇いていくことです。優先順位を考えて自分を優先するのではなく、そのみ言葉を実践することです。
私たちはいつも自分自身の心を見つめて自分を捨てているのか、自己中心になり優先順位を間違っていないかをよくよく注意し、自分の十字架、御言葉に従って日々主の栄光を現わす者でありたいと思います。