説教題:「神様の恵みのできごと」 説教要旨:イエス・キリストが私を知り、私を愛し、罪ある私の贖いの代価として十字架で死に、神の赦しと神の身内とされる祝福をもたらしてくださった救い主だと信頼して生活しましょう。
ローマ3章1〜4節
では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。
ユダヤ人たちがある意味で優越感を持っていることは誰の目にも明らかでしたが、それはどうしてかというと、彼らには神の言葉が委ねられているからだと答えが書かれています。たしかにユダヤ人たちが家の中で、また集会で聖書をいつも暗誦したり、教えられなければ、聖書の真理は決して時代を超えて私たちのところまではもたらされなかったのではないかと思います。
しかし、彼らが聖書の真理を軽視して聖書の教えにふさわしくない生き方をしたからといって聖書の権威が落ちるわけではなく、神の権威が落ちるわけでもありません。「人間」の限界がここにあります。人間は、神の教えや掟を全部守りたくても、実際にはそれができない弱さを持っているのです。偽りもの、失敗者は人間であり、神は、そしてみ言葉は変わらざる真理なのです。
文語訳の4節は「人をみな虚偽者とすとも、神を誠実とすべし」と訳されています。牧師は、ペテン師よ、詐欺師よ、とさえ言われる場合があるのです。
死者の復活や、天国と地獄の話をするからです。すべての牧師を虚偽者として断罪しても、神様と聖書は永遠に真実なのだと力説されているのです。
もし、人間が犯した罪があるからこそ、神の赦しとか、神の偉大さがわかるのであれば、私たちはもっと罪を犯すべきではないかという議論について、パウロは「とんでもない、そんな考えは処罰の対象になる」と答えます。
そして、パウロは一つの重要な結論を下します。「ユダヤ人もギリシヤ人も皆、罪の下にあるのです。」という結論です。「罪のもとにある」という表現は、罪が自分の衣服のポケットに入っているなどというものではなく、私の存在全体が罪に支配されてしまっている状態であることを教えています。
私たちの全存在が「罪の影響下」にあり、「支配下」にあるのだというのです。私たちの生活の中に不幸や悲劇があるとすれば、そういう状況下にあるからこそ、ということになります。
パウロが語ろうとしている福音は、そういう罪の支配下から脱却できる生き方があるという内容のものなのです。壮大な人間新生のメッセージです。
祝福を祈ります。
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