メッセージ 5/1

説教題 気前がいい主 牧 師
聖書箇所 マタイ20章12-15節 大久保 望信
説教要旨 天の御国を期待し、主に喜びをもって仕える生活をしましょう。

イエス様は天の御国を例えて一つの話をしています。ある所に雇人がいまして、自分のブドウ園の仕事を手伝ってもらおうと、労務者を探しに街に行きました。そして、9時頃に出いき労務者を見つけ、1日1デナリという約束で雇いました。主人はその後も街に出ていき、12時、3時、5時と労務者を見つけては自分の畑で働かせます。終わりの時間になり、雇人は監督に指示して最後に働いていた者から賃金を払うように言いつけます。その様子を見て9時から雇われた労務者はきっと自分は多くお金をもらえるに違いないと考えていたが、やっぱい同じ1デナリであった。彼らは、雇人に文句を言うが、もともと1デナリの約束であったこともあるので、どうすることも出来なかったのです。
みなさんはこの例え話を読んでどう感じるでしょうか。私はやはり不公平だと思いました。朝早く働いた人と夕方5時から働いた人の賃金が一緒だからです。けれどもこの例え話を理解する鍵は、一番最初に出てくる「天の御国」という言葉です。私たちの人間的な考えからこの例えを考えるのならば、実に不公平なことだと感じますが、天の御国のように神様の側からこの例えを考えるのならば、神様の御心、つまり神様が何を考えているのかが分かります。この例えの中のブドウ畑の主人を神様、労務者が人間を現わし、私たちが地上で神のために働く者として描かれているのです。それではもう一度この個所をじっくりと味わっていきたいと思います。
2節から7節を読みます。

20:2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
20:3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
20:4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
20:5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』

ここで言われている1デナリとは、その当時の労働者の平均的賃金だったそうです。また、労働者が市場に立っていたと書かれていますが、これはなまけていたわけではなく、そこが日雇い労務者の集合場所になっていたからでした。つまり彼らはそこで自分を雇ってくれる主人を待っていたのです。この例えの中には5時までそこにいた人もいて、雇人に声をかけられようと真剣に働いていこうという気持ちが伝わってきます。そして、そのような労務者が働く勤務時間は、朝の6時から夕方の6時までで、その日のうちに賃金は支払うようにと律法で決められていました。そのようなユダヤの文化の例えですが、実はこの例えの中で明らかにおかしいことがあります。それは、労務者を探しに行こうとする主人の行動です。
主人は、労務者を雇いに街に出ていきますが、朝9時、12時、3時、5時と4回にわたって労務者を雇おうと外に出ていきます。日雇いの仕事ですから、朝早く出て行って労務者を集めなければ損をすることになります。しかし、この主人は朝9時から何度も街に足を運び、夕方5時。つまり最後の1時間になってもまだこの主人は労務者を探しに外に出て行っているのです。なぜこの主人は、自分は損をするのに、労務者を探しに街の中を探しに行ったかというと、この主人の目的は、自分の利益の為に労務者をやっといるのではないからです。つまり、利益ではなく、人々を雇うこと、あるいは賃金を払うことを目的として行動に至ったということです。
今日の一つ目のポイントは主人が人を雇ったのは自分の利益の為ではないということです。

実はこの話は、神様が私たちを救いに召しておられる姿が現われています。神様は、何とかしてひとりでも多く、罪から救われて神の国の一員になってほしいと願われているのです。そのために、何回も何回も福音を聞く機会を与えられました。なので、雇われる時刻は、私たちが救われる時期ということができます。あるいは、イエス様が再び来られるまでの、福音を聞くことができる時代と言うことができます。救われる時期で考えるならば、朝早く雇われる労務者は、いわば、小学生の時にイエスを救い主として受け入れている人です。そして、最後の5時に雇われている人は、老年になってイエスを王と告白した人と言えると思います。この時刻をイエスが再び来られるまでの時代と考えるなら、5時に雇われる人は、イエスが再臨される直前に救われる人たちです。いずれにしても、神様は、何とかしてひとりでも救われることを願っているのです。それが、終わりの時刻になるまで、何回も市場に出て人々を雇う主人の姿に現われています。しかも、そこには大きな喜びがあります。6-7節を読みましょう。

20:6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』

この労務者は5時になるまで誰からも雇ってもらえず、ひもじい思いをしていたことでしょう。この主人に雇われるということが救いだとするならば、この労務者は、もう年をとってしまうまで神様に出会うことなかったと言うことが出来ます。きっと孤独と寂しさや辛さの中で歩んできたと思います。
さてついに、1日の仕事が終わる時間を迎えお金が支給されることになりました。

20:8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。

この主人は監督に労務者を呼んで、最後に来た人たちから準備賃金を払うように言っています。普通は一番長く働いた人から賃金を払っていくと思うのですが、最後1時間しか働かなかった者が先だったということは、それだけその5時に雇われた労務者のことが、つまり、長い間背を向けていた魂が救われることこそが、もっとも主が喜ばれることだということです。マタイ18章12-14節にはこのようにあります。

18:12 あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
ですから、主人はこの時点で、最初に雇われた人以上に、最後に雇われた人を喜んでいます。

そして、お待ちかねのお金が配られることになりました。そしてこのところで払われたお金は、みなが同じ額の1デナリでした。人間的に考えるのならば、これは不公平です。しかし、もともと労務者は雇人と1日1デナリという約束のもとで仕事をしていたので約束を破ることはしていません。しかし、最初に来た労務者はこのことが気に食わず主人に向かってつぶやきます。

二つ目のポイントは、最初に雇われた者達が勘違いをしていることです。10節から13節を読みます。
20:10 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
20:11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
20:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。

労務者はもともと一日1デナリと言われて雇われていた。しかし、なぜここで文句を言ったのでしょうか。それは、自分の方が最後に来た労務者よりもこの主人に沢山仕えたのだから、それだけの待遇を受けることが出来るだろうと考えたのです。しかし、思ったこととは裏腹に与えられた給料は、言われていた通りの額であったので、彼は怒って不満をこぼしてしまいました。 イエス様がこの例え話を話したのは、人の罪の性質、つまり自分の行いを誇り、利己主義的で、自分のことだけを考える思いに対して注意している話なのです。御国の価値観では、誰も神様に仕えた奉仕や働き、主に仕えてきた日々によって自分を誇ることは出来ないということです。なぜなら、救いは神様の憐れみによって与えられるものであり、自分たちが何か正しい人間だったからとか、良い行いをしていたからなどということではないからです。この例えの中で、彼らが忘れていたことは、自分は本来仕事を持っていない放浪者であったことと、その自分を雇人は雇ってくれたことです。雇人がもし声をかけなければ、自分は雇われることも、給料をもらう権利さえもない者です。しかし、雇人が声をかけてくれたので、自分はその日の生活費を受け取ることが出来できています。彼の歩みに希望が与えられたのです。そのような大きな恵みを忘れ、自分が選ばれたことを忘れています。 しかし、これが人間の持つ罪の性質です。信仰歴が長くなると、いつしか自分を誇り、信仰に入ったばかりの人を裁いてしまいます。自分がした働きには称賛を求めてしまいます。しかし私たちは、自分は、以前はどのような者で、キリストの救いが無ければどのような空しい人生を歩んでいたかいつも心にとめていく必要があります。その事が人を謙遜にさせるからです。

さて、この労務者の文句をもう少し掘り下げてみましょう。
20:11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』

彼は労働を終えて訴えたことは、自分がどれだけ苦しんで仕事をし、耐えていたのかということです。
今日の3つ目のポイントは、彼の心の態度です。先ほどから話しているように、これは天の御国についての例え話です。ですから、この雇い人に呼ばれるということは救われることを意味し、仕事をしている時間は、神様と歩む日々、そして仕事が終わり1デナリの賃金をもらうということは、天の御国に入ることを意味しています。つまり彼は、主人が無条件に自分を選び、仕事を与えてくれた喜びを忘れ、何を思っていたかというと、自分がどれほどその仕事で辛い思いをしていたかということです。確かに働くということは苦しいことも、辛いことも我慢したりして、自分の努力の成果も認められないこともあると思います。けれども、この労務者の心がもしも、自分を選んでくれた主人に向くならば、たとえつらい仕事をしていたとしても、与えられた役割を、喜びをもって行うことが出来たと思います。彼の一番の問題は主人に仕える特権を軽んじて、自分の恵みを忘れたことなのです。私たちもこの地上に生かされ、あらゆる労苦を体験します。自然災害によって多くの人が被害にあい、テロや戦争によって無差別に色んな人が命を落としています。この地上での苦難を取り上げていくならば切りがありません。しかし、その中で歩む私たちはいつも主に心を向けていう必要があります。滅びに向かって罪を犯し、いつも主に背を向けていた私たちを受け入れて下さり、命さえ惜しまず愛してくださったお方が、私たちを選び救ってくださったのです。
私たちは日ごとに与えられている憐れみを受け取っているでしょうか。主の恵みは溢れるばかりに注がれていますが、私たちもそれらを受け取る信仰が必要です。それはどんなときにも、主に心を向け、神の価値観を持て行く必要があります。それはつまり、苦難の中にこそ働く主の御業を私たちは期待していくことです。もしもその価値観が無ければ、この世の患難に目が覆われて、与えられている恵みに気が付かないからです。私たちはどのような心でいるでしょうか。私たちは主に選ばれた者として困難な時にも主に信頼し、主に期待し、主の与えてくださった愛に応答していくことが出来ているでしょうか。

ローマ5:3-4にはこのようなみ言葉があります。
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

私たちの与えられている患難は、後に希望へとつながるというこの約束は大きな力です。どんなにつらい状況でも、主はいつも変わらず私たちに恵みを注ぎ、希望へと導いてくださるのです。
主に仕えていく時にしておくと良いことは、過去二か月間を振り返り、神様がどんな祝福を与えてくださったのか、恵みを体験したのかを思い出し、今度はこれから2か月、神様がどんなことを自分にしてくださるのかを考えることです。それによって神様の目線で物事を考えることが出来るのです。つまり、それは過去を客観的にみて、その中で主がしてくださったことを思い起こし感謝することであり、未来に対する主への期待感を持つことによって、何かトラブルが起きても一喜一憂する必要が無くなるのです。ですから私たちは、自分たちの心がどこに向いているのか、吟味していかなければなりません。
最後です。14-15節を読みます。

20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
20:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』

彼らの文句に対する主人の答えは、自分の分をとればよいのであって、主人が他の人に与える分をねたむな、と言っています。これは、天における報いは、他のクリスチャンと自分を比べるようなものではないことです。私たちが天国に入ったら、自分たちの地位よりも、ただ神と主イエス・キリストの栄光が満ち、そのお方を心から賛美していくからです。神が、キリストにあって私たちにくださる報いは、ひとりひとりに対するものであってお互いに比べることはできないものです。
そして最後に、主人は、私は気前がいいと言っています。この主人は、なぜ気前よくすることができたのでしょうか。それは、お金がたくさんあったからです。富んでいたから、1時間しか働かない者にも1デナリを与えることができたのです。私たちの神様は、栄光の富に満ちたお方です。パウロは、「私の神は、キリスト・イエスにある栄光の富をもって、あなたがたの全ての必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ4:19)」と言いましたが、神は私たちから何かを得ようとする貧しい方ではありません。与えても、与えても、けっして乏しくなることのない、ものすごく富んだ方なのです。ですから、たった1時間しか働かなかった者にも、かわいそうに思って同じ1デナリを与えたのでした。 まとめです。
天のお父さんは、この雇人のように何度も何度も街に出て行って、仕事を無くしている人を探すように、救われていない魂を探し、自分のもとに来てほしいと願い、今も首を長くして迷える魂を、また苦難の中にいる者を、罪を悔い改める者を待っています。そしてそれは、私たちから利益を求めているのではなく、一人でひもじい思いをしている者を、孤独を味わう者に出会ってその愛を受け取って欲しいと願っておられます。主はそのような想いで私たちに救いを与えてくださいました。その恵みを私たちは忘れてはなりません。私たちの心はどこに向いているのでしょうか。主への期待感はあるでしょうか。是非、人間的な目で見るのではなく、神の目ですべてのことを見て、気前のいい主を期待して、日々主に仕えていきましょう。