前回は4章5節の「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」という御言葉の紹介でしたが今回は特に21節の「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました」というみことばに注目してみたいと思います。
まず、はじめに、アブラハムという人の物語ですが、この人のことについては旧約聖書の創世記12章から書かれています。故郷を離れ、旅立った時点ですでに高齢でした。彼は妻サライとの間に子供が生まれるという約束を神から受けるわけですが、それが実現するまでの間、彼は迷いを経験し、サライの勧めもあって奴隷だったハガルという女性との間に子供を生みます。
イシュマエルという名前の子供です。しかし、神はそれを喜ばず、彼が一人前になるまでの13年間、沈黙なさいます。そして、その後あらためてアブラハムに子供を与えるという約束を伝えるのです。やがてサライに子供が生まれます。
約束された子供が誕生したのです。するとイシュマエルの母ハガルとアブラハムの妻サラとの間に確執が生じ、ハガルと息子は追い出されてしまいます。しかし、大きな赦しの恵みがアブラハムアブラハムを強めたのでアブラハムは神を信頼し、その約束の誠実さとその力とを信じていたのだとパウロは理解しています。
不妊の女性が出産するということは人間的には不可能に近いことですが、神には不可能を打ち破る力がある、と信じていたのです。そして常に「神は約束を実現なさる誠実なお方だ」と信頼していたのです。
「神の臨在と神への信頼」その関係こそアブラハムの人生の中で重要な要素です。イエス・キリストの贖いとは、私たちと神様との間の関係を再構築するということなのです。アブラハムが神を信じたのは、「神のアブラハムへの個人的な現れと約束の言葉」に圧倒されて受け止めたということです。
アブラハムの「信仰がすごい」というよりも、アブラハムを見捨てなかった神の誠実さと約束の実行が圧倒的なのです。アブラハムは、目を丸くして「おー、素晴らしい」と応答しているだけです。それが「義と認められる信仰」だとパウロは教えているのです。
19節〜22節
アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
「彼の信仰は弱まらなかった」
アブラハムの信仰は弱まりませんでした。信仰によって強められ神を賛美したのです。年を取ると色々な面で弱くなり、信仰も弱まる可能性があります。しかし、アブラハムは、神は約束したことを実現させる力もお持ちの方だと確信していたのです。
アブラハムの神との関係は状況の善し悪しにかかわらず、いいえ、状況が悪くなっているように見える中でも揺らぐことなく、その信頼関係は強くなっていきました。ここに、神様の赦しの恵みの偉大さがあります。私たちは無限の赦しで赦されていることを知るとき、自信と勇気を持てるのです。
一般的には調子が良い時には「私の神への信頼は揺るぎません」と言葉にできるのですが、逆に状況が悪くなると「神なんているかどうかもわかりません」などと言葉に出してしまうことさえあるように思います。
信仰の最初は、多くの場合、問題を抱えていたのでイエスさまによって助けていただこうとやってきたはずなのに、信仰者として歩み始めると「試練」と思われる出来事のたびに、「神なんて願いを叶えてくれないから嫌いです」などと言いかねない心になってしまう事があります。
アブラハムは逆でした。彼は粘り強く、約束を信頼し、もしかしたら中傷に耐えながら、じっと神の約束の実現を待ったのです。前の失敗のことも心にあって、今度こそ、神への信頼を貫こうと考えていたのかもしれません。神への信頼は、苦難の時こそ必要であり、その時こそ、人間の弱さと避けどころとしての神の約束を体験できるチャンスなのだと思います。
もう一度21節〜25節を読みます。
神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
「復活による罪の赦しがあるから」
アブラハムの身に起こった事柄、つまり「信じるものを義と認める」ということは、アブラハムだけの特権ではなく、私たちひとりひとりにも与えられている祝福なのだとパウロは語ります。イエス・キリストの十字架と復活、それは私たちの罪を赦すための「贖いの代価」であり、「罪の赦しと死への勝利」の証しの死だったのですが、それは信じる私たちにも適用され、私たちにとってもキリストの十字架と復活の出来事が「私の罪を赦し、神の身内とされる」ための有効な方法なのだとパウロは教えているのです。
「2000年も前の出来事がなぜ、今の私に有効なのか」と尋ねたいかもしれませんが、それは「復活」によって、キリストの「贖いの出来事」がいつまでも有効な手段とされているからです。私たちの救い、神に義とされることのすべては、自分たちの善行ではなく、努力や修養でもなく、ただただイエス・キリストの十字架と復活によってもたらされる神の恵みの出来事なのです。
繰り返して申し上げますが、アブラハムが何故「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じ」ることができたかというとそこには神様による完全な赦しがあったからです。アブラハムは罪の負い目を取り除かれていたので大胆に信じることができたのです。信仰の根本は「赦されている確信」です。
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