メッセージ 5/29

説教題 キリストの死によって示された神の愛 牧 師
聖書箇所 ローマ人への手紙5章1節〜11節 濱野 好邦
説教要旨 キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。この愛を信仰によってしっかり受けとめさせていただきましょう。神様の愛と神様の赦しは私たちの人生に豊かさと自信を満たしてくださるのです。

5:1-2ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
 「神との平和」
私たちには、自分の行いによらず、神の恵みにより、イエス・キリストの贖いによって救いが届きました。その救いは罪の赦し、神との和解と神との平和、神と身内になれる素晴らしい特権、永遠の命への希望が含まれています。「救い」は決して小さなものではありません。
 私たちは、イエス・キリストの贖いによる「救い」をどの程度の事柄として理解しているでしょう。いいえ、キリストの死ということでさえ、「当たり前」のこととして捉えてしまってはいないでしょうか。キリストが全部手はずを整え、私たちは信頼して「よろしくお願いします。主よ、あなたを信頼します」と応答しただけですのに、神のもたらす「祝福」はとてつもなく大きいのです。それに対する感謝の心は私たちを礼拝に向かわせます。
 一人の罪人が救われると天の御国には大きな喜びがわき上がります。それと同時に救われた人の家族に大きな喜びと平安がもたらされます。一人の人の救いはイエス様の大きな喜びなのです。

5:3-5そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
 「患難さえも喜ぶ」
パウロは「罪の赦しと神との平和を得る」という祝福を喜ぶばかりでなく、「患難」さえも喜んでいると書いています。それは神の寄り添われながらの「患難」はそれだけで完結するものではなく、患難が忍耐を生み、忍耐が練られた品性を、そして練られた品性が希望を生むという連鎖がもたらされることをパウロは深く経験し、理解していたからです。
 患難がそれだけで終わらず、結果的に自分を練り上げるための重要な役割を果たすという確信は、聖霊によって神の愛が心に常に注がれていることを知っていることによってもたらされるとパウロは語ります。
 神の愛が常に心に注がれ続けているので、苦難の時も、順調の時も、その愛に支えられ、希望を持つことができるのだと言うわけです。苦難の中で神の愛は私たちを支え、忍耐につながる歩みを開き、それが練達へとつながり、それが希望へと道をひらくものとなるのです。よく、人生には無駄がない、と言いますが、その根拠はここにあります。圧倒的な神の愛による支えがあるので、前向きに進むことが可能になるのです。そしてそれは信仰によって「確信」していく必要があります。「神に愛され、神に知られている」ことを信じる必要があるのです。
 かわいい子には旅をさせろと昔の人は言いました、苦労は買ってでもするものだとも言われてきました。私は日本人にはこういう清らかな感覚が培われてきているのだと考えています。

5:6-8私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
 「神様嫌いの私を」
 ここにある「弱かったとき」という言葉は、「無能力」と訳すことができます。そして「不敬虔」とは「神様嫌い」と考えることができます。「罪人」とは「神様の求めに対して意図的に的を外し、神への反抗心を持っている人」と言えるでしょう。それが私たちの姿なのだとパウロは言うわけですが、そんな状況の私たちに対してキリストは身代わりになって死んでくださったのだと教えます。
 それが神の愛の表明でもあるのです。キリストが命をかけて救おうとしている対象は、本来なら見捨てられても仕方のないような罪ある人間です。自分の内側にある罪に対しての無能力、神に対しての不信、反感、そして神への反抗心、キリストはそういう内容を全部承知の上で十字架に向かい死なれました。
 その死は、私たちの代理であり、身代わりでした。神の裁き、神の怒りがすべてキリストの上に乗せられたからです。十字架の上でキリストは、あなたそのもの、わたしそのものになって永遠の裁きを引き受けてくださいました。そこに私たちの希望があるのです。

5:8-10しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
 「私が罪を犯し続けていたとき」
 キリストが死なれたという重大な出来事がもたらす祝福は「神の愛が明らかになった」「その血によって義とされた」「神の怒りから救われた」「神との和解が成立した」「救いがもたらされた」など、パウロは具体的に明らかにしています。それらの内容ひとつひとつ実に大きな神の恵み、祝福なのですが、気をつけないと、そういう内容の吟味のないまま、「救われたのだから、これからは何をしても大丈夫」などという乱暴な発想を持ってしまう人たちもいるようです。
 次の説にもさらに別の祝福が書かれているのですが、今日は、ここに書かれている「祝福」の内容をどれだけわかっているか、どれだけ私たちが受け止めているか、ちょっと読み返しながら考える時間を持てたら良いかもしれません。
 神との関わりにおいて「愛が提示された」「義とみなされるようになった」「怒りから救われた」「イエス・キリストの死を代価として和解が成立した」「救いが届いた」みんな、すばらしい祝福です。私たちの心が神への礼拝に向かって当然と思われる重大な出来事です。これらの事柄がわかると、神への感謝と礼拝の心が湧き上がってくるのです。

5:10-11もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
 「神を大いに喜ぶ」
 以前は神様嫌いであり、神は裁き主、怖い存在、うっとうしい存在のような気がしていたのに、恵みを味わい、罪の赦しを経験する中で「神を喜ぶ」ことができるようになってきます。イエス・キリストを信頼することでもたらされる重要な出来事のひとつは「神を喜び、神を礼拝することが喜べるようになる」という心の変化です。
 永遠の愛で私たちを愛してくださる神様ご自身に対して「いてくださってありがとうございます」と告白し、感謝し、喜ぶことができる心、それはイエスキリストが私たちをお救いくださった時に与えてくださる心です。
 救いは、自分自身に対しても、神様に対しても「いてくれてありがとうございます」と心から告白できるようになれる面を含んでいます。キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。この愛を信仰によってしっかり受けとめさせていただきましょう。神様の愛と神様の赦しは私たちの人生に豊かさと自信を満たしてくださるのです。