いつも御喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。Tテサロニケ5:16〜18
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メッセージ 6/26
説教題 | 渇き | 牧 師 |
聖書箇所 | ヨハネ4:4-15 | 大久保 望信 |
説教要旨 | 主にいつも心を向けて、飢え渇きをもって主に仕えていきましょう。 | |
さて、今日は「渇き」という題で話をしていきます。これから本格的な夏になっていくと、ますます私たちは渇きます。水分補給が大事な季節です。日射病予防のためにも、こまめに水分と塩分をとっていかなければりませんが、今日は主に対して渇いていくことをこの御言葉から学んでいきましょう。4節〜5節を読みます。 4:4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。 イエス様や弟子たちはイスラエル人です。彼らが、ガリラヤ地方に行くのに最短の距離はサマリヤという地域を通ることでした。しかし、このサマリヤという地はイスラエル人にとっては非常に近寄りたくもない地域だったのです。過去にアッシリアという国がいくつかの国を支配していたころ、征服した国の民を互いに移住させる政策をしました。その結果、イスラエル人と異邦人が結婚して生まれた子供がサマリヤ人です。しかも、その結婚によって、イスラエルの文化に異邦人の宗教も入って来たので、民族的にも宗教的にも純粋ではないサマリヤ人をイスラエルの民は嫌うようになったのです。そのようなわけでユダヤ人とサマリヤ人の間はあまりいい関係はありませんでした。そんな中でイエス様と弟子たちはサマリヤ地方を渡っていきます。 4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。 イエス様が疲れたとかかれています。イエス様は神様ですが私たちと同じ肉体を持たれました。罪は犯されませんでしたが、私たちと同じように、喜ぶことも、悲しむことも、怒ることもあります。ここでは、疲れを覚えられてサマリヤ地方の井戸のそばで休憩しているようです。そのような時に、ある出会いがありました。 4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」──ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである── みなさん、この会話をみてどう思われるでしょうか?一見かみ合っていないように思いますが、イエス様はこの女性に自分がメシヤ、救い主であると話しているのです。この女性にとって井戸に水をくむこと自体は日常的でいつもしていた日課でした。しかし、この普段と変わらない日常に救い主が現れたのです。 さあ、もう一度イエス様の言葉を見てみましょう。 4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 このサマリヤの女が毎日運んでいる水は、自分の肉体を満たすためには必要なものです。しかし、イエス様ここで言っているのは、肉体的に満たされる水ではなく、私たちの霊、魂が満たされる水のことを言われているのです。ですから、サマリヤ人とイエス様の会話がかみ合っているようで、かみ合っていないのが見てわかります。 4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」 彼女は、イエス様の話を聞いて食いつきました。しかし、それは、生ける水に対して食いついたのではありません。自分が肉体的に渇くことが無く、自分がもう二度と井戸の水をくまなくても良いようにその水をわたしに下さいと話したのです。水汲みというのは、女性の仕事でした。しかし、生活のために組む水の量はとても多かったと思います。しかも彼女は他の女性たちに会わないようにしていた理由がありました。実は彼女は、この後の個所で出てきますが何人もの男性と関係を持ち、今一緒にいる夫も結婚をしていなかったからです。なので、自分のしていることを知っている他の女性とは、あまり関わりを持ちたくはありませんでした。 わたし達も、自分の目の前にあるその問題を解決しようと必死になることはあるでしょう。家庭や職場、学校や部活。病気や自然災害など。私たちの身の回りには目に見える困難で溢れかえっています。しかし、私たちに必要なものはその物事の解決よりも、もっと違うところにあるのかもしれません。なぜなら、私たちがこの地上に生きている限り、困難が無くなることはないからです。 4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 イエス様がくださる御霊は、一度満たされるだけではなく、私たちのうちで泉となり湧き出るのです。そのようにいつも私たちが聖霊に満たされているのならば、困難の中に合っても私たちは平安を保つことが出来るのです。辛い状況でも、心に喜びがあふれるのです。ですから、さらに主の霊に満たされていく為にますます主に飢え渇いて求めていく必要があります。色々な目に見える必要があるでしょう。しかし、私たちは目に見えるものを求めるのではなく、聖霊に満たされることを求めるのならば、たとえ状況が変わらなくても、良い方向に進まなくても、自分の思い通りにことが運ばなくても、挫折を味わっても、どんな状況でも主の平安の中を歩むことが出来るのです。なぜか、私たちの心の内から主の泉が湧くからです。パウロはピリピ人への手紙でこのように言っています。ピリピ4章11-13節 4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。 ここで言われている「どんなことでも出来る」という言葉は、どんな状況でも対処することが出来るという意味です。新しい高級車を祈ったらもらうことが出来るという意味ではなく、買うお金がなく、今ある中古車によっても満足することが出来るという意味の「出来る」です。これが、私たちに与えられている霊的な財産です。「主にあって喜ぶ」ことは、どんな状況でも決して揺るがされることのない、神の平安を持つことが出来る力です。この手紙を書いていた時、パウロはどこにいたでしょうか?なんとローマの牢屋の中です。いつ釈放されるかもわからない。毎日の食事もわずかで、明日には殺されるかもしれない。そのような状況でこの手紙を彼は書いたのです。パウロはやけになってあきらめていたのではありません。彼は聖霊に満たされ、牢獄のような何があるか分からない状況でも、主の平安を受け取っていたのです。 |