メッセージ 6/26

説教題 渇き 牧 師
聖書箇所 ヨハネ4:4-15 大久保 望信
説教要旨 主にいつも心を向けて、飢え渇きをもって主に仕えていきましょう。

 さて、今日は「渇き」という題で話をしていきます。これから本格的な夏になっていくと、ますます私たちは渇きます。水分補給が大事な季節です。日射病予防のためにも、こまめに水分と塩分をとっていかなければりませんが、今日は主に対して渇いていくことをこの御言葉から学んでいきましょう。4節〜5節を読みます。

4:4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。

 イエス様や弟子たちはイスラエル人です。彼らが、ガリラヤ地方に行くのに最短の距離はサマリヤという地域を通ることでした。しかし、このサマリヤという地はイスラエル人にとっては非常に近寄りたくもない地域だったのです。過去にアッシリアという国がいくつかの国を支配していたころ、征服した国の民を互いに移住させる政策をしました。その結果、イスラエル人と異邦人が結婚して生まれた子供がサマリヤ人です。しかも、その結婚によって、イスラエルの文化に異邦人の宗教も入って来たので、民族的にも宗教的にも純粋ではないサマリヤ人をイスラエルの民は嫌うようになったのです。そのようなわけでユダヤ人とサマリヤ人の間はあまりいい関係はありませんでした。そんな中でイエス様と弟子たちはサマリヤ地方を渡っていきます。

4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。
4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。

 イエス様が疲れたとかかれています。イエス様は神様ですが私たちと同じ肉体を持たれました。罪は犯されませんでしたが、私たちと同じように、喜ぶことも、悲しむことも、怒ることもあります。ここでは、疲れを覚えられてサマリヤ地方の井戸のそばで休憩しているようです。そのような時に、ある出会いがありました。
 イエス様が井戸に腰を下ろしていると一人の女性が水を汲みに来ました。時間は6時頃だと言われています。この時間は日本時間に現わすと、正午の時間です。ここでは、ただ時間を告げているわけではありません。実は、普通の女性はこの時間に水をくむことをしません。生活の為の水をくむので、大体、一般的に朝と夕方に水を汲みます。朝起きて働いている間に必要な水や、夕食の準備のために水を汲みに来るので、朝早くと昼下がりに水を汲むのが一般的です。つまり、この女性はそのような時間に水を汲みに行って、人に会うことが無いようにしていたのです。
 さて、彼女は水を汲みに来たわけですが、見知らぬイスラエル人が座っていて、せっかく人がいない時間を狙ってきたのに、人がいたので驚いたことでしょう。彼女は深くかかわらないようにしようと、井戸に近づきます。すると、イエス様がその女性に「水を飲ませてください」と話し出します。彼女はさらに驚きました。この聖書で書かれているように、サマリヤ人とイスラエル人は険悪の中だからです。9-10節を読みましょう。

4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」──ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである──
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

 みなさん、この会話をみてどう思われるでしょうか?一見かみ合っていないように思いますが、イエス様はこの女性に自分がメシヤ、救い主であると話しているのです。この女性にとって井戸に水をくむこと自体は日常的でいつもしていた日課でした。しかし、この普段と変わらない日常に救い主が現れたのです。

 さあ、もう一度イエス様の言葉を見てみましょう。
「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
 イエス様はここで水をもらうという話から生ける水、御霊の命、すなわち救いを紹介しました。私たちが主から与えられる救いは、私たちの行いや学歴によるものではありません。完全な主の賜物、プレゼントとして与えられるのです。イエス様があのむごい十字架にかかったのは、全世界の人の命を救うためです。もちろんこのサマリヤ人も例外ではありません。しかし、このサマリヤの女はこのイエス様の話を聞いて、生ける水、御霊の命ではなく井戸の水のことを言っているのだと勘違いしています。しかも彼女は、イエス様に向かって、ヤコブよりも偉いのか?と言っている所から、まだ自分と話しているのが救い主イエス様だと気づいていません。そのような彼女にイエス様はご自分が与える救いがどのようなものかを説明します。

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 このサマリヤの女が毎日運んでいる水は、自分の肉体を満たすためには必要なものです。しかし、イエス様ここで言っているのは、肉体的に満たされる水ではなく、私たちの霊、魂が満たされる水のことを言われているのです。ですから、サマリヤ人とイエス様の会話がかみ合っているようで、かみ合っていないのが見てわかります。
 さて、もう少しこの永遠のいのちの水に焦点を当ててみましょう。このような話をきいたサマリヤの女は、このイエス様の話にどのように答えているでしょうか?何気ない会話の中にこのサマリヤ人の心がしっかりと現れています。それが、次の個所です。

4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

 彼女は、イエス様の話を聞いて食いつきました。しかし、それは、生ける水に対して食いついたのではありません。自分が肉体的に渇くことが無く、自分がもう二度と井戸の水をくまなくても良いようにその水をわたしに下さいと話したのです。水汲みというのは、女性の仕事でした。しかし、生活のために組む水の量はとても多かったと思います。しかも彼女は他の女性たちに会わないようにしていた理由がありました。実は彼女は、この後の個所で出てきますが何人もの男性と関係を持ち、今一緒にいる夫も結婚をしていなかったからです。なので、自分のしていることを知っている他の女性とは、あまり関わりを持ちたくはありませんでした。
 彼女がイエス様の話に食いついたのは、そのような今自分が抱えている問題を解決してくれると思ったからです。

 わたし達も、自分の目の前にあるその問題を解決しようと必死になることはあるでしょう。家庭や職場、学校や部活。病気や自然災害など。私たちの身の回りには目に見える困難で溢れかえっています。しかし、私たちに必要なものはその物事の解決よりも、もっと違うところにあるのかもしれません。なぜなら、私たちがこの地上に生きている限り、困難が無くなることはないからです。
 その時、私たちは主にどのように祈り求めているのでしょうか?サマリヤの女のように、自分の困っている状況が改善されることを祈るでしょうか?しかし、もしその困難なことの解決を求めたとしても、また別の困難が頭を悩ますかもしれません。主もサマリヤの女に対して、肉を満たすための水はまたいつか渇くと言われます。つまり、困ったことが無くなることはないのだということです。
 この話で少し勘違いして欲しくないことは、自分の必要を祈ってはいけないということではありません。自分の必要の為に是非祈って下さい、主の恵みは溢れています。主は私たちが祈る前から私たちの必要を知っておられるお方です。ですから、主からその祝福を是非受け取って下さい。しかし、気を付けなければならないことは自分の必要を求めて祈るあまり、その祈りの答えが得られなとき、自分が神に見放されたと思ってしまうならば、また、神を否定してしまうのならば、またその背後にある主のご計画を疑ってしまうのならば、それは間違いです。
 イエス様はこのサマリヤの女になんと言ったでしょうか?

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 イエス様がくださる御霊は、一度満たされるだけではなく、私たちのうちで泉となり湧き出るのです。そのようにいつも私たちが聖霊に満たされているのならば、困難の中に合っても私たちは平安を保つことが出来るのです。辛い状況でも、心に喜びがあふれるのです。ですから、さらに主の霊に満たされていく為にますます主に飢え渇いて求めていく必要があります。色々な目に見える必要があるでしょう。しかし、私たちは目に見えるものを求めるのではなく、聖霊に満たされることを求めるのならば、たとえ状況が変わらなくても、良い方向に進まなくても、自分の思い通りにことが運ばなくても、挫折を味わっても、どんな状況でも主の平安の中を歩むことが出来るのです。なぜか、私たちの心の内から主の泉が湧くからです。パウロはピリピ人への手紙でこのように言っています。ピリピ4章11-13節

4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。
4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

 ここで言われている「どんなことでも出来る」という言葉は、どんな状況でも対処することが出来るという意味です。新しい高級車を祈ったらもらうことが出来るという意味ではなく、買うお金がなく、今ある中古車によっても満足することが出来るという意味の「出来る」です。これが、私たちに与えられている霊的な財産です。「主にあって喜ぶ」ことは、どんな状況でも決して揺るがされることのない、神の平安を持つことが出来る力です。この手紙を書いていた時、パウロはどこにいたでしょうか?なんとローマの牢屋の中です。いつ釈放されるかもわからない。毎日の食事もわずかで、明日には殺されるかもしれない。そのような状況でこの手紙を彼は書いたのです。パウロはやけになってあきらめていたのではありません。彼は聖霊に満たされ、牢獄のような何があるか分からない状況でも、主の平安を受け取っていたのです。
 私たちは日々主に、自分の必要を求めることが大切です。しかし、もっと大事なことは主の御霊に満たされて歩むことです。
 今日も主に飢え渇きをもって、主に満たされていきましょう。