メッセージ 7/10

説教題 救いの根本である復活 牧 師
聖書箇所 ローマ8:23-25 濱野 好邦
説教要旨 復活への希望を新たに、実質のある活き活きした信仰生活に進みましょう。

8:1-3
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

 神様の救いが届きました。それはイエス・キリストによってもたらされました。イエス・キリストを信頼している人たちは、実は「罪と死」についてキリストがすべて引き受け、肉体的にも霊的にも、対社会に対しても、対神にたいしても「わたしそのもの」となって十字架にかかり、そこで私の罪をすべて引き受け、処分してくださったのです。
 がんばって律法を守っても、成し遂げられることのなかった「神に対する罪の決済」をキリストが人としてきてくださって、私たちの罪そのものとなり、神の裁きを受けてくださいました。解放は私たちの頑張りではなく、「イエス・キリストの贖い」のおかげでもたらされました。
 私たちのできることは何一つなく、すべてイエスさまのおかげであり、神様がその十字架での贖いを受理してくださったことによるのです。私たちはその救い主イエス・キリストを信頼し、十字架と復活による罪と死からの解放を信頼し、神を礼拝することができたら、救いが届き、神の呪いと裁きは去るのです。
これはまさに「イエス・キリストによってもたらされた福音のちから」です。

8:11
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

 私たちはイエス・キリストの十字架と復活によって救われました。キリストの十字架は私たちの罪の身代わりでした。キリストの復活は、私たちの復活の保証なのです。キリストが十字架刑を受けて私の代わりに神様の刑罰を受けられたので、私の罪は既に精算済みとなったのです。
 赦された私たちですが、赦されただけでは前に進めません。具体的に未来に向かって新しい人生を生きる私たちにはキリストを復活させた神様の御霊が宿っているので、死に定められている私たちの肉体も復活させられると約束されています。復活の伴わない救いは救いではありません。

8:12-17
ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

 「肉に従う生き方」ではなく「聖霊によって生かされる」ことこそ・イエスキリストを信じた者の義務だとパウロは言います。「霊によってからだの仕業を絶つ」という表現がありますが、聖霊の助けによって日々の生活における様々な罪の誘惑に打ち勝つ、罪の誘惑の中に引き吊りこまれないようにするという生き方が望まれているのです。
 これは瞬間、瞬間、に神の恵みが必要であり、聖霊による促しが必要だということを意味しています。心も体も「聖霊の宮」としての自覚をもって、聖霊とみ言葉とに促されつつ歩む時、神の子、神との身内関係という意識がとても鮮明になってきます。
 神の子供とされるということは決して小さなものではなく神の相続人、キリストとの共同相続人だとパウロは言います。神の祝福を相続出来る立場におかれているのです。
 パウロは15節で「人を奴隷として恐れに陥れる霊」と「神の子とする霊」という言い方で、律法主義、原理主義の導く「奴隷」へ方向と、聖霊による促し、満たしによって導かれる「神の子ども、神の身内」としての道のふたつを提示しています。
 人間的な傾向としては「何も考えず、盲従するだけの律法主義による奴隷への道」を選ぶ人が多いように思います。イエス様の語った「広い道」です。
 しかし、神は、私たちに奴隷として最終的には苦しめられる広い道ではなく、最初はたどたどしく右往左往しながらも「父なる神」のことを「お父ちゃん」と呼べる神との深い関係を構築しながらキリストと一緒に喜び、キリストと一緒に苦しみ、最終的にはキリストが受ける栄光を受け取ることが出来る道を歩むようにと勧めているのです。
 大事なことは「律法による行動的達成感」を目指すのではなく「キリストとの共生」を喜びながら生きることなのです。頑張って何か大きなことを「達成する」ことばかりを考えていると日常的な比較的小さなことを軽視することがあります。それよりも、日々をキリストと一緒に生きること、何気ない小さなこともキリストと分かち合うことで喜び合える、心の響き合う関係が深まってきます。
 人にはそれぞれの使命がありますから、大きなことを実行すべき人もおられるわけですが、そうだとしても「キリストとの日常的な共生」こそが喜びの土台となります。

8:23-27
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

 すべての被造物が死に隷属している状況から解放されることを切望していると書いたパウロは人間も同様に、特にキリストを信頼している私たちはなおさら死の恐れや死に縛られている状況からの解放を切望しているのだと言うのです。その希望は目に見えるものではないのですが、目に見えないからこそ希望に値するのだとパウロは教えています。
 この望によって救われているのですというパウロの証しは私たちに復活への信仰を促します。復活への信仰が私たちの心の中に定着するとき、私たちの救いは確実なものになります。復活を疑わしく思う気持ちはあらゆる手段を使ってでも払拭してしまわなければなりません。信仰は架空の出来事ではないのです。
 そして、実は、聖霊が私たちの心に住み、私たちの言葉にならない「うめき」「ため息」「憤り」「心底からの願い」を神のもとにとりなしてくださっているのだと書かれています。
 これは実にありがたいことで、心にある深い痛み、悲しみ、そして希望を私たちはうまく言葉にできないのですが、そのすべてを聖霊が私たちの代わりに代弁し、神のもとに届けてくださっているのだというのですから。祈りがどんなに下手でも大丈夫だという根拠がここにあります。
 神は私たちの上手な祈りを聞きたいわけではなく、私たちの隠し立てのない心の内側を知りたいと願っておられます。
 神の前に正直な自分、そのままの自分で静かに心を開き、神に聖霊を通して私のうちにあるすべてを知っていただきたいと申し出れば良いのです。
 聖霊は間違いなく、私たちのうめきさえも取りなしてくださって、父なる神に届けてくださいます。聖霊様のとりなしを感謝しつつ、救いの根本である復活への希望を新たにし、実質のある活き活きした信仰生活に進みましょう。