いつも御喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。Tテサロニケ5:16〜18
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メッセージ 10/23
説教題 | 恵みによる救い | 牧 師 |
聖書箇所 | エペソ2章1-5節 | 大久保 望信 |
説教要旨 | 主の恵みの大きさを味わい、証していきましょう。 | |
エペソ書の1章では、神様から注がれる霊的祝福について話をしています。霊的祝福とは、この世の肉的な祝福ではなくて、救われることです。パウロはその祝福をさらに際立たせるために、2章では、過去の自分を振り返ってその恵みの偉大さをほめたたえているのです。つまりこういうことです。例えば、明日から皆さんは掃除道具のセールス販売をするとします。パウロはこの2章で、自分たちは救われる前はどのような者であったのか、そして救われた後は、どのように変えられたのかを説明して、救われたことの素晴らしさを力説しようとしているのです。 それでは、1-2節を読みます。 まず、初めにパウロが衝撃的なことを言っています。私たちは救われる前は、「死んでいた者」だというところです。もちろん、肉体的に死んでいるわけではなくて、霊的に死んだものとなっているということです。 続いて3節です。 主は私たちを尊く造って下さいました。一人ひとりいらない人はいません。皆が神様に造られて、今日まで支えられてきました。しかし、そんな私たちは、私たちが救われる前は御怒りを受けるべき子らでした。 BC660年頃。ある国の王様は、国民がみだらな生活に陥り、不義の罪を犯す者が続出するので、悩んだ末に、禁令を発布したそうです。それが、「今後、男女の間を乱す者は容赦なくその両目を取るべし。」と。恐れた民衆はしばらくその行為を慎んだが、また乱れ始めた。そして、最初の犯人があがった。激怒した王は真っ赤になって、「その不届き者はだれか」とたずねた。しかしそれはなんと、大切な王子であった。たいへん悩みましたが、法律を破ることはできない。かといって我が子の両眼をとることはしのびない。法の義と愛の板ばさみになって、まわりのものが見るも気の毒であったそうです。王は腹をくくり、「第1犯人の処罰を執行せよ。」と命じました。王子は手術台にのせられ、命令とはいえメスを持つ医師の手はふるえていました。王は「何をちゅうちょるか。早く始めよ。」と命令した。やむを得ず医師は王子の右眼をとってしまいました。しかし、王様はこの後にこんなことを言い出します。「もうそれで赦してやれ。左の眼は私の目を取り出せ。」と言った。まわりの者がお止めするのを聞きかず。医師は涙をのんで左の眼をえぐり取った。片目になった王とその傷を見た一同は、ただ頭を下げ、両眼からは涙が出るばかりであった。このことが全国民に知れ渡ったとき、「ああ、私たちの不義の行ないが王の眼をえぐり出したのだ」と言わぬ者はなかった。その時以来罪はやんだ。 他の宗教にも、「ありがたい教え」はたくさんあります。しかし、神さまの愛と神の義を現わされた神さまはキリストのほかにはありません。 続いて、4-5節を読みます。 イエスキリストの救いは一方的な恵みで、私たちの状態によって左右さえるものではありません。この箇所を見てわかるように、私たちが救われたことは、自分が何か特別なことをしたからではないのです。しかし、私たちの志向はどうしても行いによってそれを得ようとします。私自身、苦行や修行などはしないにしても、自分が救われるためには、何か行いを少しはしたほうが良いのではないか?と思う時期がありました。しかし、もしも私たちが行いによって救いを得ようとするならば、それは、自分のことを自分で救うことが出来るという意味になってしまうのです。私たちの頑張りによって救いを勝ち取ることが出来るのならば、イエス様が十字架にかかられたことが全くの無意味になってしまいます。私たちは自分で自分の罪の処理をすることが出来ないので、イエスキリストが代わりに処理して下さったことを忘れてはならないのです。この恵みの概念をなかなか受け入れることが出来ないのは、この地上の愛は、条件付きの愛だからだと思います。あなたが私を優しくしてくれるならば、私はあなたを愛します。あなたが私を助けてくれるなら、私はあなたを愛します。そのような人間的な考えが、神様を見る時にもそのような小さな枠に神様を収めてしまっているのではないでしょうか?神様の愛は、私たちの考えをはるかに超えるものです。私たちは、日々与えられた救いを味わって、証するものとなりたいと思います。 |