いつも御喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。Tテサロニケ5:16〜18
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メッセージ 2/26 互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。1テサロニケ5:11
説教題 | 愛のチャレンジ | 牧 師 |
聖書箇所 | Tペテロ2章18-25節 | 大久保 望信 |
説教要旨 | どんな相手にも愛を注げるようになりましょう。 | |
ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今日は、Tペテロから御言葉を取り次ぎたいと思います。このペテロはあのイエス様の弟子、お調子者のペテロです。聖書では彼のエピソードをいくつか書いていますが、ある時は、イエス様が自分の足を洗おうとするので驚きました。しかし、イエス様は足を洗わなければあなたと何の関係もないと言われたので、「体全身洗って下さい!」とイエス様の言葉の意味をまるで理解していませんでした。またある時は、「死ぬまでついていきます!」と言いながらも本当にイエス様が十字架に掛かられる時、あれだけお慕いしていたイエス様を3度も「知らない」と言って否定しました。そのような、弟子の中では特に出来の悪いようなペテロがこの手紙を書いています。 この手紙の内容は、紀元一世紀頃が舞台です。イエス様が復活し天にあげられてから沢山の教会が出来て、イエスキリストを信じる者達が増えていきましたが、その大きなリバイバルの働きとは反対に、キリストに従ったクリスチャンを迫害する者達が増えていきました。最初はユダヤ人の手によって広がっていきましたが、迫害の頂点に達したのは、その当時の皇帝を拝もうとしないクリスチャンを帝国から排除しようと、ローマが決定した時でした。うちたたかれて、投獄されて、死ぬものも出てきている中でペテロは、教会が離散していくのも見てきていました。そんな状況の中でペテロの信仰はどうなっていたのかというと、消えることなく燃やされていたのでした。そして、散り散りになったクリスチャンに励ましのメッセージを送ろうと書いたのがこの、ペテロ手紙Tの内容です。 先週の木曜日京成ローザで「沈黙」を見てきました。この話も遠藤周作が17世紀の日本の史実・歴史文書に基づいて創作した歴史小説で、江戸時代初期のキリシタン弾圧の話です。 その迫害の渦中(かちゅう)にポルトガル人の司祭が置かれて、彼を通じて信仰について描かれた映画でした。主人公の司祭や、その司祭をかくまった村の隠れキリシタンたちが弾圧にあい、苦しんでいく様子は見るのもつらいものでした。結局この作品は、ハッピーエンドで終わる話ではありませんでしたが、最後はその主人公は、その苦しみを沈黙しておられた神様が、遠くにいたのではなくて、共にその苦しみを味わっていたのだという結論に至ります。聖書のこの当時の迫害も、恐ろしく苦しいものだったと思います。しかし、彼は絶望の中にキリストが復活したことを信じて、教会に慰めと励ましを送り、キリストに忠実であり続けるように勧めたのです。1章〜2章の前半までが、救われた者に対する神様の祝福、2章後半から4章まで、苦しみのただなかにあるクリスチャンの振る舞い、そして5章は苦しみのただなかにある神の民の羊飼いについて語られています。今日は2章なので、苦しみのただなかにあるクリスチャンの振る舞いについてみていきます。聖書を見ていきましょう。18節です。 2:18 しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。 19節〜20節です。 イエス様が地上の生涯の中で弟子たちに告げた事、そして、この地上で最も大切なことは2つだけだと言われました。それは、神を愛すること、そして人を愛することです。ペテロは、イエス様と生活を共にしてイエス様の姿をいつも隣で見ていました。罪人を招き、共に食事をして、人に見下され相手にされない人達と共に交わりを持ちました。イエス様は弟子たちに自分の敵を愛しなさいと言われるほど、愛を形にしていくことを教えていったのでした。つまり、「神の前における良心」というのは、神の愛を実践することです。パウロもローマ書13章7節でも同じことを言っていますが、彼は、「自分の義務を果たすように。」と書かれています。そして、その愛を選択していく時に、主は私たちを砕き造り変えて、品性を整えてくださるのです。 ここでも何度か話をしましたが、神学校時代色んな人に出会いました。そして、私が卒業した北海道の神学校は、海外からの学生が入学してきますので、それぞれの国の文化がそのまま寮の中に入ってきます。日本人同士でも生活習慣の違いがあると思いますが、海外だとなおさらその違いが多くあります。しかし、どのような人が入ってきても、寮の決められたルールや掃除の仕方がありますので、皆がその寮の決まりに従わなければなりません。特に寮の中では細かい決まりがありましたので、入学した学生は驚いてしまいます。例えば、水を節約するためにシャワーの使う量が決められていたり、食事は必ず食堂でしなければならなかったり、男女が隣同士で車に乗ることが出来なかったり、食堂の冷蔵庫に自分の物を置けるのは一週間までだとか、みんなが使う食器用布巾は畳んでしまうなど、様々でした。そのルールに嫌になった海外からの学生が私に言ったのは、「なぜ、食器用布巾は角を揃えて畳まなければならないのか?」でした。なかなかその学生は納得いきませんでし、その他の学生も、寮の規則に反発するとも現れて、最後の学年は自分の愛をとても試された時間でした。しかし、その時に語られたことは、たとえ相手に非難すべきところがあったとしても、そこで自分も相手を裁いたり赦さなかったりすることは、自分も神さまに罪を犯しているのだということを知りました。それがパウロも言っていたように、「自分の義務を果たしていくこと」です。 そして、そのモデルとしてペテロは、イエス様の十字架の御業を取り上げています。 そして最後25節です。 |