メッセージ


聖書箇所

イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
マルコ1:14-15

私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。
ヘブル6:1

12月28日(日)
メッセージ

濱野好邦
説教題:「愛と宣教による完成をざして」

「感謝」
 今年も最終の主日礼拝になりました。イエス様は大きな恵みの中で私たちの信仰を守り、私たちの生活を導いて下さいました。この礼拝ではまず、第一にこの恵みに対して心からの感謝を献げさせて頂きましょう。
 今年は、ディズニーランドへの挑戦と召天者記年礼拝の復活がありました。また、ハンドベル演奏を目ざして活動を開始することが決まりました。千葉教会では新しい教会案内ができあがりました。これが用いられて福音が証しされていることを感謝せずにはいられません。何よりも嬉しいことは洗礼を受ける人が起こされたことです。
 私は、個人的には大久保旨子先生たちと一緒に聖書のみことばによる信仰の訓練をすることが出来たことが大きな収穫でした。入院して治療を受けた方々が複数ありましたが、それぞれ、神様の恵み御手を頂いていることは大きな祝福です。

「悔い改めて」
 年末の礼拝で欠かすことの出来ないことの二番目は赦罪と悔い改めです。私たちクリスチャンの信仰生活の中では、キリストの現れを待つ、ということが最も大事なことです。待つことが愛であり、待つことが赦しであり、待つことによって謙遜と従順を学び、待つことが人間を忍耐強くさせるのです。
 キリストは私たちをあらゆる面で待っている神様です。ご自分のなさるべきことはすべてなし終えて、私たちがキリストの身元に来ることを待っておられます。待てない人は、未熟であり、待てる人が成熟した人なのです。多くの人が待てないばかりに大失敗をし、どん底に落ち込んでいきました。私たちは、このクリスマスに、待てないという自己中心を捨てて、キリストの現れを待つ人になっていきましょう。
 先ず、神様に対して、神様に頼らなかったことを悔い改め、お互いに赦し合いましょう。聖書では偶像礼拝が固く禁じられていますが、私たちクリスチャンにとっては、神様に頼らないことが偶像礼拝なのです。それは、無理矢理に何かをする、誰かに、無理矢理何かをさせるということです。
 イエス様は、悔い改めについても、みことばへのお従いについてもトコトン私たちを待ってくださるお方です。それは、私たちへの赦しの恵みとして現わされています。無限の赦しを受けている私たちは、イエス様に倣ってお互いに赦し合って生きているのです。赦し合うとは簡単な言葉でいうと、対立しないで仲良く暮らすと言うことです。

「成熟を目ざして」
 イエス様は、私たちすべてのクリスチャンに対して「成熟を目ざして進もう」と呼びかけておられます。これは、来年の基督聖協団の標語として掲げられているみことばです。イエス様は私たちに対して、イエス様のような人になってもらいたと思っています。ですから、私たちはイエス様のような人になりたいと思い続けいていることが大事なのです。
 現在の自分とイエス様を比べてみたら、全く似てないと思わなければならないかも知れませんが、似ているところが結構沢山あるのです。それは、神様を信じて、天のお父様とお呼びすること、天の御国を慕い求めていること、天のお父様から愛されていること、天のお父様に祈りを捧げ、天のお父様に礼拝を献げること、天のお父様に感謝することなどなど数え切れません。洗礼を受けたクリスチャンで、キリストに全く似てないという人は存在しないのです。

     愛
     |
  祈――十――仕
     |
     証

 キリストの十字架を軸にして、神様と人々を愛し、多くの人々に福音を証しし、常に祈り、神様と人々に仕える生活、これがクリスチャン人生です。これは正にイエス様の人生でした。私たちは、日々の生活の中でキリストに似たものに変えられつつあります。この点に於いて私たちは成長し、成熟を目ざす道を与えられているのです。
 新年に向かって、神様への悔い改めと、キリストへの成熟を目ざす信仰にたちましょう。目標に向かって努力する人生と、惰性に流される人生とでは大きな違いがあります。イエス様の生き方は、私たちが一生をかけて学ぶ価値の高い物です。イエス様の生き方を私たちのものとして習熟するところまで引き上げて頂きましょう。にっこりほほえんでアーメン。と挨拶を交わすところから踏み出しましょう。

私の来年の目標は「待てる人になる」です。これは、今年私が聖書通読をした結果イエス様から与えられた来年に向けてのチャレンジです。