メッセージ


聖書箇所 ヨハネ13:34

愛の原点  「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」ローマ8:5。私たちが悔い改める前に、キリストが私たちのために十字架にかかり、私たちの犯した罪の身代わりになって死んでくださったということが私たちの信仰と愛の原点です。ここに一方的に与えていく愛の原点があるのです。受けるより与える方が幸いなのです。相手に譲歩させるだけで生きていく人生はあまり面白くないかも知れません。

02月23日(日)
メッセージ

濱野好邦
説教題:「互いに愛し合うこと」

「建て上げる愛」
ヨハネの福音書13章34節35節
 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

 キリストが私たちを愛したように、クリスチャンが人々を愛すなら、私たちがイエス・キリストの弟子であることが分かるのです。人々は教会にいるクリスチャンが互いに愛し合っている姿を見て、クリスチャンの愛を知ることができるのです。愛とは単に温かい気持ちで人と接するということ以上のものです。

 愛は必ず行動に現れます。自分にとって不都合な状況の中で人を助け、自分が乏しいときに分け与え、自分の幸福よりも他の人の幸福に力を尽くす生き方です。不平を言わず、他の人から与えられる苦痛にも忍耐することです。そのようにして私たちは愛の行いをできるのです。

 キリストの愛は言葉や口先だけのものではありませんでした。悪口と雑言、むち打ちと十字架刑を受けてまで私たちの罪を贖ってくださったのです。罪深い私たちを罪深いままの状態で受け入れてくださり、限りない愛で私たちを包み続けていてくださるのです。

 イエス様は私たちを愛し、私たちを建て上げるためにご自信を私たちに与えてくださいました。私たちも人を愛すときには、相手を建て上げるために自分自身を与えていくのです。建て上げという大きなそして重要な目的を持って愛し合うことです。私たちはいつもキリストの愛の中で生きています。

ルカの福音書6章41節42節
「目にあるちり」
 あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて取りのけることができるのです。

 ここで言う「目にあるちり」とは、判断力を鈍らせる要素のことであり、罪のことです。自分の判断力は完璧だと思い込んでいる人は、他人の判断力の低さを指摘して、正しい判断を促すでしょう。しかし、自分の判断力が完璧だと思っている人の自分に対する判断は誤っています。目の中の梁とは大きな罪のことです。

 他人の欠点には気がつくのですが、自分の欠点はなかなか分からないことが多いのです。そして、他人の長所はなかなか見えず、自分の長所は自慢したがるのです。自分の短所や欠点をしっかり踏まえた上で謙遜に生活し、相手の長所や利点を正確に把握できるようになってから、人に忠告もアドバイスもできるようになるということです。

 イエス様はご自分を完全に知り、そして私たちを完全に理解していてくださる方です。私たちの生まれも育ちも知り、私たちの癖も苦手も得手もよくご存じで、私たちの状況や信仰の段階に応じ、適切にそして優しく導いてくださいます。このようなイエス様に育てられている人こそ他の人を養育できるのです。

 私たちは、イエス様に自分の目にあるゴミを取りのけてくださるように御願いしなければならないのです。それは、私をきよめてください、という祈りです。目の中のゴミとは、心の中の罪のことです。心がきよめられるとスッキリと神様のお姿が見えるようになります。

「罪の深さと愛の深さ」
ルカの福音書7章41節42節43節
 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか」シモンが「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。

 より深くキリストを愛す人とはどのような人物でしょうか。それはより多くの罪を赦された人です。自分の罪深さを重々思い知った人が罪を赦された場合は、自分の罪を軽く考えていた人が罪を赦された場合より、赦してくださったキリストを深く愛すようになるのです。

 パウロはローマ5章20節で「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」と述べています。罪の増加とは、罪の分量が増えるのではなく、罪の認識が深まることです。それは、自分の犯した罪の重さを知ることでもあります。自分が罪人であると自覚して苦しんだ人は、イエス・キリストの十字架による赦しがとても嬉しいのです。

 私たちの罪認識には様々な段階があります。公の法律や条令に違反した場合。道徳やマナーに違反した場合。そして、神様への反逆という罪を犯した場合。どれも罪であり、謝罪と償いをする必要があります。公の法律に違反しても、裁判で無罪を主張する人がいます。道徳違反や神様への反逆は警察の取り締まりを受けないので、罪と感じる人は少ないのです。

 そういう話の中で、自分が自己中心という罪を犯している罪人だと気づくと、その罪の解決策が見つからないためにとても苦しみます。自己中心はすべての罪の根源なのです。その罪の根をキリストによって処理され、罪の根から解放された人の喜びはとても大きいので、キリストへの愛はとても大きくなります。キリストの救いは自己中心からの解放なのです。

「愛と感謝」
ルカの福音書7章50節
 イエスは女に言われた。あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。

 愛に満ちた人になりたい、感謝の心を忘れずに生きる人になりたいという気持ちが私たちの内にあります。愛と感謝は、信仰によって罪を赦され、人生に救いをあたえられた人の心から出てきます。この女はマグダラのマリヤと呼ばれた女性で、イエス様に愛と感謝を献げたのですが、それはこの女性が真に罪の赦しを得ていたしるしです。

 教会生活や教会活動に熱心になることはとても大事なことですが、それには愛と感謝を伴うことが必須です。マグダラのマリヤは罪の汚れに苦しんだ末イエス・キリストを信じる信仰によって罪を赦されていました。罪を赦されるということは、その人の人生を大転換させる力があるのです。

 敵意と憎しみ、怠惰と放漫、他人の不幸を喜ぶ冷たさ、孤独感など書き出せばきりがないほど私たちの生活には嫌な物がつきまとってきます。それは私たちの人格が破壊された結果なのです。私たちに罪の赦しを与えられ、私たちと創造者の関係が回復すると、私たちは愛と感謝に満ちた新しい人に造り替えられます。

 これが十字架と復活によるキリストの救いの中身です。造り主は、ご自分に反抗しない人をご自分に似た形に造り変えていきます。マリヤはある時は絶望したかも知れませんが、イエス・キリストに出会ってから創造者と和解し、新たに神の子として造り替えられ、愛と感謝を獲得したのです。

キリストを手本にして、
愛をプレゼントできるクリスチャンとして生きていきましょう。