メッセージ


聖書箇所

ルカ14章16〜24節

06月22日(日)
メッセージ

大久保旨子
説教題:「神は招いておられる」

 イエス様は、神の国を祝宴にたとえるイザヤの預言を知っていました。そこで、「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。‥」(16節)と、神の国を盛大な宴会にたとえ話を始めます。ここでは宴会の招待を断った人々が出てきます。彼らは断った事情や理由をかかえていました。この理由があるから仕方がない、これならば断っても当然のことだ、と考えていたのです。しかし、それらは断る理由として本当に当然だったのでしょうか。畑を見に行くにしろ、牛を調べに行くにしろ、奥さんと過ごすにしろ、招待を受けたのだから、別の日にするとか、一日ぐらい奥さんに我慢してもらうことはできなかったのでしょうか。そう考えると、彼らの行動が自己本位であるように思います。

 自分にとって、より価値のある理由ができると、人はその理由を何とか正当化して、それ以前に交わした約束や予定をキャンセルしようとします。けれども、キャンセルしてはならない約束があります。それは神さまとの約束です。神さまからの招待です。ここでは神の国への招きです。

 パリサイ派は、神の掟である律法を熱心に守る人々でした。律法を守ることで神さまに認められ、神の国に招き入れられると信じていました。そして、律法を守ることができない取税人や遊女、貧しい人や障がいのある人々を、神の国に招かれない人間として差別していたのです。ですからそういう人を食事に招待するなど、絶対にしませんでした。自分たちは神の国に招かれているが、この貧しい人、弱い人、罪人は招かれていない。そういう信仰が、彼らの“当然のこと”だったのです。その為、イエス様が語っていた「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」という招きを拒否したのです。

 イエス様は律法の中でいちばん重要なことは“愛”である。と示されました。それは、神を愛し、隣人を愛する愛です。その愛を実現するために、イエス様は安息日であっても病人や障がいを負っている人々を癒し、嫌われ者であった取税人や罪人、貧しい人々と食事を共にしました。決まりを守ること、掟に固執することが大事なのではなくて、神を愛し、隣人を愛するという視点に立って歩むことが一番重要なのです。弱いといわれる人、ちっぽけだと思える人、ないがしろにされるような人にこそ、愛が実現するところ、神の憐れみが実現するところ、そこが「神の国」です。イエス様は、そういう信仰の価値観で生きる人生に、すべての人々をお招きになったのです。もちろん、パリサイ派の人々も、です。

 さて、最初に招待した人々に断られた主人は、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を呼び集めました。その人たちは14節にあるように、「お返しができない」人々です。神の国に招かれるのは、“お返しができない人々”です。神様は神の国へと招いてくださっている。でも、自分は神さまにお返しするような行いも人格も持っていない。こんな私でも神の国に招かれているのかと自分を低くして、へりくだっている人(11節)のことではないでしょうか。

 皆、神の憐れみによって生かされ、救われている。この恵みを、まず自分自身が知り信じることが、すべての人と共に生きる神の国を実現するための、大切な第一歩です。

 また、救いということ以外にも、神様は私達との個人的な愛の交わりへと招いてくださっています。これらは、大勢の礼拝の時ではなく、私達がひとりでいるとき、静まった場所で神様と一対一の時間を選ぶことです。また、神様の元で安らぎを得、癒しを受け取り、神様の御思いに心を馳せます。神様との交わりこそが私たちのエネルギーの源となるのです。そのような最も価値ある時間へと神様は私たちを招いておられます。神様は今も私たちの心の扉をたたき続けておられるのではないでしょうか。神の招きに応じる者でありたいと思います。
祝福をお祈りいたします。