メッセージ


聖書箇所

創世記6章5〜8節、9章11〜13節

07月06日(日)
メッセージ

大久保旨子
説教題:「ノアの箱船」

 今、日本で映画「ノア」が上映されています。もうご覧になったという方はいらっしゃるでしょうか。私も見に行ってきました。この映画は聖書の内容をそのまま映画にしたものではありません。聖書では「全き人ノア」として書かれ、ノアとノアの家族、だけが神様の心にかなっていて、動物たちと共に助けるために箱船計画をノアに任せ、助ける。というものですが、映画ではノア自身が、神様が自分達を助けてくださるという希望に立っておらず、そのせいで映画全体は暗く希望のないままストーリーが進んでいくことが残念です。その他にも聖書と違う点が色々とありました。しかし、ストーリーの上での違いを説明する必要はあるにしても、多くの聖書に触れたことがない方々がこれをきっかけに聖書を手に取ったり、教会に興味をもったりするようになるのであれば良いかなと感じます。

 旧約聖書は様々な形で新約聖書とつながっています。ノアの箱舟もその一つで、新約聖書の救いの原型ということができます。それは、滅びからの救いということです。神様は罪に満ちた世界に裁きを下され、滅ぼされる、しかし、その滅びから私たちを救ってくださる。その救いがノアの箱船の話しの中にも表わされているのです。ただ、ノアの箱舟の場合は、確かに滅びからの救いについて私たちに教えていますが、十字架の贖いということまでは描かれていません。
では、私達はこのノア箱船の記録から何を受け取ることができるのでしょうか。今日からノアの箱船というテーマで数回にわけてみてゆきたいと思います。

 5節から8節には、神様が世界を滅ぼそうとされたことが書かれています。神様はこの地上に悪が増大し、心に計る事、考えることがみな悪いばかりに傾くことをご覧になって心を痛め、苦しまれます。そしてついに人間を作ったこと自体を悔やまれるのです。
しかし、そのような中でも8節に「しかし、ノアは主の心にかなっていた」と書かれています。すなわち、このような堕落と罪が満ちる世の中にあっても、それとは違ってノアの生き方の中に、神様の御心に適う生き方が描かれていたということです。

 神様は洪水によって地上のすべての生き物を滅ぼそうとされました。しかし、ノアの家族だけを救われたのです。なぜノアが救われたのでしょうか。それはノアが正しい人だからだと書かれています。私たちが救われるためには、私たちもノアのように正しい人にならなければ救われないのか、自分のようなものが救われるだろうか。そのように心配される方もおられるかもしれません。「全き人」と言われたノアから学びたいと思います。

*全き人ノア(9節)*

 ノアはどのような意味で「正しく、全き人」だったのでしょうか。まず第一に「その時代にあっても」、と書かれています。すなわち周囲がどれほど罪に満ちた世界であっても、なお正しく生きる、ということです。他の人がしているんだからいいじゃないか、皆がしているからこれくらい仕方ないじゃないか。今でも日本人の中にはそのような傾向があります。そういう生き方ではなく、神様の目の前に生きる姿勢を忘れない。それがノアの生き方でした。

 それでは「全き人」とは何でしょうか。洪水の後のノアの姿を見るならば、彼も失敗のある人間だったことが分かります。完全無欠な人ではありませんでした。映画でもノアは奥さんに対し、私達の内にも悪があり、罪あるものだと言うシーンがあります。

 ではなぜノアは「全き人」と呼ばれたのでしょうか。「全き」と訳されている言葉は原語をみると「成熟している」と訳すことも出来る言葉です。ノアという人は、成熟した人であった、つまり神様のノアへの評価が人として成熟していて、人間としてこうあるべき姿だったという意味です。しかし、罪に溺れ滅んでしまった人々はこのノアの生きたとは全く正反対の者でした。(11,12節)

 当時の世界を一言でいうならば「堕落していた」ということです。
映画では、その人間の罪に落ちて堕落していく様子が具体的に描かれていました。自分たちは神様の御心から離れ、罪を犯して、悔い改める事もしないのに、目の前にある問題や苦しみを取り除いて欲しいとばかり願う人間の姿。そして自分たちの必要に応じて助けてくれない神様へ反発しなおも罪に落ちて行く自己中心的な姿がありありと描かれていました。実際には具体的な罪の内容まで聖書には書かれていませんが「暴虐で満ちていた」とあるように、残虐な行いがなされ、それはまさに人としてあるべき姿から離れてしまっていたのです。

 しかしノアはそのような時代にいながらも流されることなく、滅びに向かう生き方を選ばなかったのです。神様に向かう生き方を選び取って生きていたのです。

 私たちはイエス様によって救っていただいた!だからこれからは、自分の好き勝手に生きる!というのではなく、イエス様を中心として生きる、イエス様を心の主として生き続ける事です。それこそクリスチャンとしてのあるべき姿です。

 それはキリストに従うということであり、また罪から救われたのだから、神様の嫌われる罪から離れる、きよさを求める続けることです。それがホーリネスということであり、これが、私達聖協団が昔から継承され続けてきた「きよめ」の信仰です。ノアが全き人であったというのは、天使のように完全だったという意味ではなくて、人間として、いや、信仰者としてあるべき姿であった、ということなのです。

 9節の最後には「ノアは神とともに歩んだ」とあります。 神と共に歩むとは、どこに行くにも、いつも神様と共に生きる生き方です。神様よりも前に進み出て、自分の生きたいように生きる自己中心でもありません。また、ただ神様の後についていくだけの、何も考えないロボットのような姿でもありません。また神様から離れてしまうのでもなく、どこにいても、何をしていても神様と共にいる、それがノアの生き方でした。

 私たちと、神様との歩調はどうでしょうか。つい、自分勝手に歩いてしまったり、反対に神様の進もうとされる方向について行かなかったりすることがあるかもしれません。私の場合は、たぶん神様のほうがずいぶんと忍耐して、一緒に歩んでいてくださるような気がします。ノアの生き方に学び、ノアように主の御心に適う生き方を求めてゆきましょう。
祝福をお祈りいたします。