説教題:「信仰による自由」
コリント人への手紙第一1章27節28節29節
神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
「生かされている」
多くの人が自分に知恵がないこと、愚かであること、そして弱いことを恥ずかしく思っているかも知れません。自分が取るに足りない者であることで涙を流し、見下されたことで怒りや反発も感じてきたかも知れません。自分が無力であることからは一生逃れられないものと絶望していたかも知れません。
しかし、キリストは多くの有能な人々がいる中から、こういう私たちを選んで神様の救いに入れて下さいました。私たちは、この尊い救いが自分の力や能力によったものではないことを十分に知っています。そして、今は、自分が無力なものとして生まれたことを感謝できるほどにされているのです。
何処の世界でもおごり高ぶることは禁物です。かといって、謙遜になろうと思っても偉くなりたいという気持ちは私たちから離れることはありません。謙遜と高慢の間で揺れている私たちです。その揺れの中で、自分が救われたことの経緯を考えてみると、神様の前でも人々の前でもどうしても自分を誇ることができないのです。
私は始めてこのみことばを見たとき、無知で愚かで弱い自分にも先行きの光があると感じて希望を持ちました。教会とは、自分にはここに在籍する資格がないと思う人に在籍する資格がある世界でただ一つの場所である、という意味の言葉を読んだことがあります。キリストが私たちに生きる空間を保証してくださったので、生かされていると実感しています。
詩篇119篇47節48節
私は、あなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。私は私の愛するあなたの仰せに手を差し伸べ、あなたのおきてに思いを潜めましょう。
「聖霊によって」
私たちのキリストに対する態度が及び腰であると、信仰生活に自由が無くなります。それは、みことばを行なうことを何ものかに強勢されることにつながるからです。互いに愛し合って生きるということも、それが自発的でなければ面白いことはありません。
電車などに乗ったとき、微笑みを添えて誰かに席を譲るなどしたときに、相手に喜んでもらえると、とても嬉しく感じるものです。自分の愛の行ないが相手の幸福に役立ったという経験を積み重ねていくことが大事なことだと思います。神様のみことばを行なうことで私たちも幸せになれるのです。
自宅で聖書を読んで祈ること、人々に福音を証しして伝道することなどは億劫になりがちなことです。殊に、自分の心と生活の在り方を反省し、悔い改めることなどは、強勢されてできるものではありません。聖霊様の力を身に受けることが必要です。イエス様に向かって、静に「アーメン。」と唱えると、聖霊様は私たちの心に満ちてくださいます。
聖霊様が私たちの心の中で働いて、私たちにキリストに積極的に近づこうという思いを抱かせてくださいます。聖霊様が私たちに、みことばに従って生きていこうという気持ちを持たせてくださるのです。聖霊様が私たちを励まし、私たちにみことばを行なう力を与えてくださるのです。それで私たちは神様のみことばを喜んで行えるのです。
ルカの福音書4章18節19節
わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし主の恵みの年を告げ知らせるために。
「主の恵みの年」
ナザレの会堂で、イエス様が聖書を朗読するために立つと係の人がイザヤ書を手渡したので、61章の1節2節を朗読しました。それがきょうの聖書です。読み終えてイエス様は「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」と自分が聖書で預言されていた救い主であると宣言したのです。
私たちすべての人は、罪に縛られて自由を失っています。特にユダヤ人はユダヤ教の律法にガンジガラメにされて神の御国への道を歩むことができなくなっていました。イエス様は人々に罪の赦しを与え、ご自分によって神様を見えるようにし、すべての虐げられている人に自由を与える方として登場したのです。
主の恵みの年とは「ヨベルの年」と呼ばれ、五十年ごとに到来する自由解放の喜びの年のことです。ヨベルの年には、人手に渡っていた父祖伝来の土地が元の所有者に返還され、ユダヤ人の奴隷はすべて解放されました。そして、イザヤの預言は、主の恵みの年を告げるために、主の霊を注がれ、主に遣わされる人を指し示しておりました。
イエス様が与えてくださる自由は、死と罪の力からの解放です。イエス様は私たちの罪の身代わりとして十字架で死に、そして復活して死と罪の力に打ち勝ち、私たちに救いと解放を与えてくださいました。イエス様の死と復活は私のためだったと、信じて受け入れる人に解放と自由が与えられるのです。
この後イエス様は、悪霊に憑かれた人、手の萎えた人、立てない人、目の見えない人など様々な身体的に不自由な人たちを癒して自由にしました。イエス様は私たちを自由にするために天から降られた救い主です。私たちもこのお方によって解放され自由にされているのです。解放され自由に生かされていることを大いに感謝しましょう。再び奴隷のくびきを負わせられないようにしましょう。
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