説教題:「愛のうちに建てられる」
「召され、器官である私達」
ここに書かれている第一の勧めは、「召しにふさわしく歩みなさい」です。まず、今日私達が心に止めたいことは、私達はひとりひとり神様に召されたものである、ということです。エペソ1章3〜5節を読みましょう。ここには神様が私たちを世界の基の置かれる前から選ばれていた、ご自分の子にしとうと定めておられたということがわかります。
では、神様は何故召してくださったのでしょうか。それは、キリストの身体を構成する、一部分を担う者として集めてくださったのです。
1章4節に「御前で聖く、傷のない者にしようとされた」とあります。神様は私たちをキリストの身体の一部分として選び、それにふさわしく成長するように召してくださいました。(4章1節)
キリストの身体である教会には誰一人として同じではない、多種多様な個性や、様々な持ち味を持っている方たちが召し集められています。そして、その各器官が互いにそれぞれに機能し合って行くとき、教会全体が豊かにされ、神の御心にふさわしく用いられていく教会となっていくのです。
時にその交わりの中で悩み、葛藤し、取扱いを受ける事を通して、罪よってゆがめられていた部分、自我が浮き彫りになることもあります。しかし、それらが神様によってそぎ落とされていき、互いに研がれていき、成長していく、和解によってまた深く結びつけられるていくことが、キリストの身体が互いに組み合わされて一つとされる、頭なるキリストにふさわしく建て上げられていく、という私たちに無くてはならない恵みの過程なのです。
「教会であるわたしたち」
次に心に止めたいのは、私達自身が教会であるということです。キリストの身体の一器官である私たちは、キリストの教会そのものでもあります。私達は教会に来る時、今日は、教会からどんな恵みがいただけるだろうか、教会からどんなに助けられるだろうか期待して集まることも良いですけれども、でもそれだけではなくて、私達がまず教会そのものである、ということを今一度心に止めて、私は教会にどう仕える事ができるだろうか、自分はこの教会の為に何ができるだろうか。どのように他の方々と関ることが神様は喜ばれるだろうか、と考える者でありたいと思います。
4章2、3節を見ましょう。ここでは、「…御霊の一致を熱心に保ちなさい。」とあります。御霊による一致です。教会はキリストにあって、ひとつとされ、一致しているべきです。その為には、謙遜と柔和の限りを尽くし…とあります。
まずは謙遜、へりくだりが必要となります。相手を尊ぶ姿勢が必要です。また、召された者として柔和であるようにともいわれています。私達はいつも暖かく柔らかい心でありたいと思います。それはやがて教会の雰囲気そのものになるからです。そして、寛容を示すこと。寛容とは人を受け入れて、大きな心をもって赦すことです。また、愛をもって互いに忍び合い、とあります。見返りを求めない愛を示すことです。
そして3節、平和のきずなで結ばれて、御霊の一致を熱心に保ちなさい。とあります。私たちは人を見て比べやすいものです。自分の中で勝手に優劣をつくり、高慢になったり、自己卑下になってしまうのです。それぞれに個性があります。自分の中でも、この部分は強い、この部分は弱いというのをあわせもっています。このすべてが私の持ち味であり、神様の最高傑作品として造られた私達なのです。ですから私達は競いあってはいけません。弱い部分を強く見せる必要も、劣っている部分を隠す必要もありません。私達は強い部分、弱い部分があるからこそ、お互いを尊び、助け合い、補い合い、活かし合って組み合されることにより聖霊による一致を保っていくことが出来るのです。
祝福をお祈りいたします。
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