メッセージ


聖書箇所

ダニエル3章10〜12、16〜18、28〜30節

10月26日(日)
メッセージ

大久保旨子
説教題:「もしそうでなくても」

 ダニエルは王の宮廷に留まりそこで仕え、3人の友人ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤはバビロン州の事務をつかさどることになりました。ダニエルは宮廷で仕えていたためか、この3章では登場しません。この3人の友人の活躍をみてゆきたいと思います。
 ネブカデネザル王は金の像を造りました。これによって自分の偉大さや権力を民全体に示し、誇る為に巨大な金の像を造ったことが伺えます。そして王の強い意志により、金の像への礼拝が命じられました。それに従わない者は、誰であっても火の燃える炉の中に投げ込まれ、殺されてしまうというのです。彼らはダニエルの信仰同様、神様の前での誠実を示しました。ところが、その事で王の怒りをかい彼らは火の燃える炉に投げ込まれることになってしまいます。しかし、またしても神様は彼らと共にいて助けてくださったのです。
 私達はここからどのような神様の教えを受け取ることが出来るでしょうか。

(1)誠実な信仰を貫く
 彼らのとった態度は、神の前に誠実な信仰を貫いたと言えます。これは最初の試練の時にダニエルが偶像に捧げられた食物を食べない事を堅く決意した場面を思い出させます。3人の友人もまた、どのようにでも言い訳しごまかせる状況ではありました。私達もまた、いのちの危険とは言えなくても、不利な状況になることや、自分の立場が悪くなるようなことを恐れてごまかしたり、とっさに都合のいいように言い換えてしまったり、自分を守ろうとする弱さが人間には誰にでもあるように思います。しかし、彼らはこのような状況下でも神の前に誠実を尽くすことを曲げなかったのです。

(2)すべては神の御手の中にある
 どんな神も火の燃える炉からは救い出すことはできない。というネブカデネザル王の言葉に対し、彼らは、自分たちの信じている神は私達を不可能な状況からでも救い出すことが出来る、とハッキリと断言しています。彼らは神様に対する絶対的な信頼があったのです。
 絶対的な信頼、それはどのような信頼でしょうか。神は私たちの願いを叶えてくださるお方だ、という信頼でしょうか。しかし、18節で彼らは「もしそうでなくても」と語っています。確かに彼らは自分たちの信じている神は全知全能であり、どのような状況になったとしてもそこから助け出すことの出来る力を持っておられる事を知っていました。しかしそれだけではありません。彼らが神様に寄せていた絶対的な信頼とは、願いを叶えてくださる神、神は自分たちの思うようにすべてを整えるという信頼ではなく、例え自分たちの願っている事が神の計り知れないご計画に沿っていなかったとしても、この命が助からなくとも、「神様が私たちの素晴らしい神であることは変わりません」という信頼です。「計画されている未来が決して私たちの望む形でなくとも、私達の主、神を礼拝します。」という信仰です。
 何という絶対的信頼でしょうか。私たちは、祈りに応えてくださるときだけでなく、祈りが応えられない時でさえも、私達は神を愛し、礼拝する者であるべきなのです。
 ダニエルの友人たちもそうでした。神様への誠実な信仰を貫いたが故に、火の燃える炉の中に投げ込まれることになりました。「何故こんなことに」と嘆きたくなる状況の中で、自分たちが助かるか、助からないかは関係なく、すべてを支配されている神の前に誠実を尽くすことだけを守り、後の事は神を信頼して委ねたのです。
 私達は困難を通されるような時に神様を愛し礼拝することは苦しく困難に思える時もあると思います。しかし、状況が良い時も悪い時も神を愛し礼拝するときに、私たちの思いが問題の渦から、神様を見上げるところに引き上げられ、神の御思いに結び合わされ、希望の光が注がれるのです。そこに本当の解放と喜びがあるのです。主を信頼する者となりましょう。祝福をお祈り致します。