11月のみことば |
平和をつくる者は幸いです。 その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。 |
マタイ5:9 |
平和という言葉は2度の大戦を経てきた現代人には最もあこがれに満ちた美しいことばではないでしょうか。 この平和ということばは一緒になる、協力する、また語る、話しかけるなどの意味があります。人が争わずに話し合いが成立したり、一致協力できる状態が平和であることです。ユダヤ人は今日も出会いがしらのの挨拶に『シャローム』と呼び掛けます。『平和でありますように』と。 人と人との完全な理想的関係が平和であることは言うまでもありません。でも人間にはそれが出来なくなっているのです。聖書は、「あなたがたのからだの中で戦う欲望が出て来て争ったり、戦ったりします」と原因を語っています。また、創世記の最初の創造の人の子が、弟に対する妬みで最初の殺人事件が記されているのです。 造り主に背き続けた人間の歴史は平和を築くことか出来なくなってしまいました。神はそのような私たちをご覧になり、『時が満ちて』神のひとり子イエス・キリストをお送り、十字架につけてくださり、敵意、憎しみ等ことごとく打ち滅ぼして神との平和を築いてくださいました。 これが起点なのです。平和をもつことができた。平和を破らない。争いを扇動しない。これらは消極的です。 『平和をつくる者』は幸いです、が今月のことばです。能動的に自ら平和を求め、行動に移していくことを努めることです。 ここに4千年前にアブラハムが、自分の妻の墓所をへブロンのマクペラに求めました。地上て初めて鉄器を使った騎馬民族出身であるエフロンから譲って貰う交渉の様子が聖書に記されています。無償で良いと申し出たエフロンに対し、周りの人々(他民族)の人々との争いが起こらないよう銀400シェケルを払い、平和の内に妻を埋葬した記事はとても心打たれるものがあります。戦争があちこちで起こっている今日です。そのただ中に生きている私たちの取るべき態度を考えなければなりません。世界を動かしている神が解決の道を示してくださった イエス・キリストを心にお迎えし、平和を築き、平和をつくる者にならせていただきましょう。クリスマス、新年に向けて心を整えてまいりましょう。 祝福をお祈りいたします。 |
濱野好枝 |
10月のみことば |
私はこれを心に思い返す。それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。 主の恵みを。」実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。 |
エレミヤ哀歌3:20-23 |
主は私を囲いに入れて出られなくし、私の青銅の足かせを重くされた。と記されているように、エレミヤの預言を受け入れない反バビロンを唱える人々によって投獄されました。 そのような中でもエルサレムの救い、回復を願い神のことばを語り続けました。 民を愛し、何度も祝福しようとされた御方を拒んだ民の姿を見て泣き、エルサレム崩壊の様子を悼み悲しみました。その歌がエレミヤ哀歌なのです。 人は何に対して嘆くか、悲しむかによって、その人自身を見ることとなります。五感に入ってくるものにのみ生きている人の結末は悲惨なものです。 聖書にある金持ちの話があります。財産が沢山たまり蔵を建て増して治めた後の金持ちのことば「わがたましいよ、これから先何年分も一杯物がためられた。さあ休め、食べて、飲んで楽しめ。」でした。神はすぐ「愚か者。おまえのたましいは今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったい誰のものになるのか。」宣告されたのです。(ルカ12:18) 神に対して富まない者の結末です。この歴史を動かし、私たちを命に導こうと考えておられる神に目を注ぐことこそ、豊かな人生を送ることができるのです。 神はユダヤ人だけでなく全人類に目を注いでおられます。聖書は「遍く全地をみそなわし,,,」と記されています。エレミヤはエルサレムが滅亡する未来の光景を見つめて嘆き悲しんでいるように、神の御心は一人も滅びることを望まず、御子イエス・キリストを送り、救いの道を準備してくださいました。 貴方は何が不安ですか。「たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことの出来る方をおそれなさい。」と聖書は語っています。また「あなたの真実は偉大です」とエレミヤは感嘆の声を挙げているのです。あの苦難の中で。 ♪♪ 豊かな人生の条件は、聖書の中に、歴史の始まる以前から啓示されています。 祝福をお祈りいたします。 |
濱野好枝 |
9月のみことば |
イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。 |
ヘブル人への手紙13:8 |
創世記1:26に、神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」 これらのことばにより、神は三位一体(父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神)、天地創造の時からおられ、すべてを動かし、また完結されるお方であると分かります。 神に似せて造られた人間が、全く異なる形相を持って生かされ続けて来たことは、キリストに出会って初めて知ったことでした。内側も外側も神の姿、格好など微塵もも無い姿でありました。イエス・キリストの十字架による贖い、罪の赦しは偉大な神の愛と憐れみを私の心に注がれてきたのです。 イエス・キリストに出会うきっかけは人それぞれです。私が尊敬する同志社大学創立者新島襄、真珠湾奇襲攻撃隊長淵田美津雄、津田塾大学創立者津田梅子、皆違っています。しかし、神のことばを語られた指導者がそれぞれの方におられました。聖書は、『この指導者たちのことを覚え、彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい』と語っています。 私の信仰の指導者は、谷中広美先生でした。戦後間もなく立ち上がり、人材育成の為聖書学院を立ち上げ、また開拓伝道に邁進されました。立ち上がった時に掛けられた神の声は、『主なる汝の神を拝し、ただ之にのみ仕え奉るべし(文語訳)』マタイ410とお聞きしました。 私はその聖書学院で学び、実地試験を受けさせていただきました。学院長谷中広美先生の生活は、実に質素で、聖霊に燃やされてよく祈られ、神学校教育に開拓伝道に命を燃やしておられたことを思い出しています。死後もなお語り続けています。その先生を導いたお方はイエス・キリストで、昔も今も永遠に変わらない神なのです。 全てが変わり行く中に、生かされていますが、変わらない神がおられることはなんという希望でしょうか。 |
濱野好枝 |
8月のみことば |
そして、毎日、心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。 |
使徒の働き2:46-47 |
イエス・キリストが復活され、ご自分が生きていることを示され、40日間栄光の姿を現され、神の国のことを語られました。 「エルサレムを離れないで、イエスから聞いた父なる神の約束を待ちなさい。」と。そのことを聞いた弟子たちは、「イスラエルの国を独立させてくださるのですか?」と尋ねましたが、イエス・キリスト様の答えは、『その事の決定は神の御旨に任せて、あなた方は聖霊を待ち望みなさい。』と語られ、弟子たちの見ている間に天に上げられて行きました。 弟子たちはまず、イエスを裏切り、自殺したイスカリオテ・ユダの欠員を補い、皆で祈りに入っていきました。 実にその祈りは聖霊降臨となり、多くの人々が救われるリバイバル(信仰復興)が起こりました。 神の御心は、人々が救われることにあることがよく解ります。 2千年前に起こったリバイバルを検証しながら、私たちはリバイバルを求めていきたいと思うのです。 その秘訣第一は、心を一つにすることです。目指す所が同じである、キリストの十字架への道をお手本とすることです。次に宮に集まること3番目に聖餐式(キリスト様が十字架にかけられる前の最後の晩餐に行った)をしていたこと。4番目は、神への賛美がささげられていたこと。これら4つの有り様を通して、家全体、地域全体、国家を挙げて素晴らしいことがなされていくのです。 この秘訣を覚えて、リバイバルを求めて行きましょう。この事を阻もうとする力は、必ず働きます。この5年間の出来事を見て、私たちの心を挫けさせているのです。今月のみことばと反対に、教会から賛美が消え、交わりが失われ、礼拝はリモートで行なわざるを得なくなりました。 あなたは、掲げられたみことばなど不可能に近いとお考えになるでしょうか?教会はありとあらゆる配慮をしつつ、神のことばは力がある、必ず為ると一歩信仰を押し出していかなければなりません。 主は必ず力を現してくださいます。 皆様の上に祝福が豊かにありますよう祈ります。 |
濱野好枝 |
7月のみことば |
それゆえ―神である主のことば―わたしは生きている。 |
エゼキエル書35:11 |
この聖書はエルサレムが神殿崩壊する時代に活躍した預言者エゼキエルの預言です。 ここに登場するセイル山とは、死海の南東地域の名(今はヨルダン王国)で、そこに住み着いたエドム人を間接的に指すため用いています。 散らされたイスラエルの民が約束の地に帰って来る場合、一番の脅威はその地を自分のものにしようと狙っていた周りの諸国民でした。イスラエルの民がその地を所有して、そこで安らかに住むためには、彼らのあらゆる企てが打ち破られなければなりません。 エドムはヤコブの兄エサウの子孫です。イスラエルの弱体化に乗じて占領しようとしていました。 神の選びは、アブラハム、イサク、ヤコブと受け継がれてきました。エサウは創世記27:40にありますように、父イサクのことば「お前は自分の剣によって生き、自分の弟に仕えることになる。」との通りになったのです。この事からヤコブ(=イスラエル)に対する恨み、憎しみを抱き高ぶりました。この態度は次の行動に現れてきたのです。弱体化するイスラエルに攻めてきたバビロン軍に加担し、積極的に攻撃に加わりました。その上逃げるイスラエルの民をバビロン軍に引き渡しました(オバデヤ書10-14)。しかし、主はエドムのその様な限りなき敵意を裁かれるのです。 神はエドムがイスラエルに対して行った嘲り、侮辱は神ご自身になされたものだと考えているのです。エドムを裁く⇒その時神は自らを現すと宣言されました。 このエドムの先祖エサウは、お腹が空いたので、弟の煮豆で腹を満たしたいと望んで、長子の権利など何の役にも立たないとヤコブに渡しました(ヘブル人への手紙12:16)。このエサウを聖書は淫らな者と記しています。 この出来事は、目に見えるもの、欲望に目が眩んだと言って良いでしょう。神が人間に与えた永遠を思う思いなど興味ありません、という不遜な態度です。 このエサウの末路は、エゼキエルの預言後900年に完全に実現したのです。エドムは滅びたのです。 あなたはこの事からどのように考えるでしょうか。 神は生きておられるのです。真実な方に信頼する者でありたいですね。 祝福をお祈り致します。 |
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6月のみことば |
決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。 |
ローマ3:4 |
神のことばを委ねられたイスラエルが不誠実な歩みをしたら、そのイスラエルの不誠実で、神は真実な方ではないということになるのでしょうか。その問いかけに今月のみことばが証しされています。 天地万物の創造者である、全知全能の神がイスラエルを神の民として選び、神のことばを委ねた神は、嘘をつくことなどあり得ないと断言しているのです。 このみことばは、私たちに長男が授かった時、谷中先生が祈ってくださった第一声でした。私たち夫婦は血液不適合ということで、生まれてくる子どもに重度の障害があるか、最悪死産ということにかるかもしれないと産婦人科医師に言われたことを報告した時の祈りでした。「兄弟姉妹、大丈夫神に信頼しなさい。」と励ましてくださったのでした。神様は丸々太った元気な子どもを与えてくださり、心配してまだノンクリスチャンだった義父の「でかした」という素晴らしい言葉までいただいたのです。 『神は真実な方』と信じられなくなる時は、問題にぶつかると私たちは見えるもの、また、人間による言葉などに振り回されてしまう時等と判ります。そうではないでしょうか。神は人ではないのです。人を造られた方なのです。創造された私たちこそ、神の真実を裏切った存在なのです。当然罪の罰として滅びに行って当たり前なのです。その私たちに対しての神様のなさったことは何だったでしょうか。愛する独り子イエス・キリストを十字架に渡して滅びに追いやったのです。 あなたはこの神を偽り者と言い放つでしょうか。者でない、方なのです。祝福をお祈り致します。 |
濱野好枝 |
5月のみことば |
神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。 |
使徒の働き3:15 |
4月待ちに待った桜が咲き、あっという間に散りました。青梅長渕山通称赤凹山は全山萌黄色になりました。この原稿を書き上げた時には、真っ青になりました。茗荷の芽が生え出でて季節が進んで様子が変わってまいりました。私たちも変わっていきたいと思います。 復活の主に出会ったマグダラのマリアは、弟子たちにイエスのことばを知らせました。ユダヤ人を恐れていた弟子たち(墓が空っぽでイエスが見当たらないことが原因)は戸に鍵をかけて潜むようにしていたと記されています。 復活の主は音もなく入ってこられ(超自然的です)、(栄光の体ですから)。”平安汝に在れ””父の我を遣わし給える如く、我も汝らを遣わす””聖霊を受けよ”とイエスが言葉をかけられました。何が何だかわからなかったというのが実際のところでしょう。 その後、ガリラヤ湖で漁師として働いて弟子たちの側に来られ、”子どもたちよ食べるものがありませんね”と言われ、主自ら大漁の場所を示し、その魚とパンを取り弟子たちに与えられました。 人を恐れ沈み込んでいた弟子たちに主は顕現され、言葉をかけられ、交わりをされたのです。この交わりこそペンテコステで教会が誕生した中心にあったものです。 復活の主が40日間数々の確かな証拠をもって使徒たちに現れ、神の国のことを語られました。まずエルサレムにとどまること、約束の聖霊を受け取ることでした。弟子たちは、3年間イエス様と共に生活し、見たこと聞いたことを生半可な気持ちで受け留めていた事を悔い改め真剣に神と向き合ったのです。その様子は使徒の働き2章に記録されています。姿変わりした使徒たちは大胆に復活の主を証し、神の生ける力を語り続けました。変えられたのです。 私たちも復活の力、聖霊に満たしていただき証し人となりましょう。 |
濱野好枝 |
4月のみことば |
あなたがたは向きを変えて出発せよ。 |
申命記1:7 |
イスラエルの民を出エジプトさせ、カナンの地に導き出された民はモアブの草原に着きました。 約束の地への第二の玄関口であるカデシュ・バルネアに到着、40年の第11の月の1日にイスラエルの民に主が命じられたことを、モーセの第一声が冒頭のみことばです。 申命記は中国語訳で、最初に使われた書名です。神の命令を繰り返し解き明かしたモーセの書という意味です。つまり、【回顧と展望の書】と言ってよいでしょう。 今、新しい世代が新しいリーダーに率いられ、歴史を拓いていく為に備え、ヘシュボンに住むアモリ人の王シホンを撃ち、バシャンの王オグを撃ち破った後語られたことばが『向きを変えて出発せよ』です。 私が1968年基督聖協団聖書学院の玄関に掲げられていたみことばは、『聖霊の云える如くせよ』でした。奇しくも2024年聖協団聖書学院が復活したのです。祈りの群れとして使命を果たすよう主が力強い御手でプッシュしてくださいました。正に『向きを変えて出発せよ』です。 イスラエルの民も目指すは、乳と蜜の流れる地カナンです。祝福に満たされた地です。 地中海性気候で、地を潤す雨、収穫の雨二回の雨により作物が豊かに実る土地。聖書にカナンの地を偵察に行った斥候二人が棒で担いでくるほどの巨大なブドウが収穫できるのです。イスラエルの土産品にこのリーフレットがあり、旅行に行かれた人はよく買い求めています。 神様がアブラハムから代々に渡って語り続けた約束の地に入るに、今まで通りでの歩みでは間に合わないことを『向きを変えて出発せよ』のことばに示されているのではないでしょうか。 移動する。杭を抜くとの意味のように長い年月過ごしてきた天幕をたたんで、次のステッぷに向かうとのことでしょう。 私たちであるなら、自己満足に陥ってないか、心の壊れ、破れがないか主に点検していただき、自己犠牲を伴う覚悟を持って、聖霊に満たしていただき、聖霊の云えるごとく踏み出していくよう勧めをいただきました。 さあ出発しましょう。 |
濱野好枝 |
3月のみことば |
あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。 |
ぺテロ第一の手紙2:9a |
ぺテロと聞くと、キリスト者でなくても“ああ、イエス・キリストが十字架に架けられる前、三度イエスを知らないと言った人だ“と思う人がおられるでしょう。 キリストの弟子となるように召集を受けた時、すぐに網(漁師であった)を捨ててイエスに従った。 また、キリストのことをあなたはどう言うかと問われた時、「生ける神の子キリスト(救い主)」と告白しました。このぺテロ手紙は『イエス・キリストの使徒ぺテロ』と自らの立場をはっきり示しています。これは徹頭徹尾主イエス・キリストの呼び掛けに応答する生涯へと変えられた姿です。 ぺテロは迫害に苦しむ信徒たちに手紙を送り、励ましたのです。AD64年のローマの大火に続いて起こったネロ皇帝の迫害、さらに続く苦難に直面していたキリスト者たちを覚えて、この状況で、どう対処し、かつ世にあってどのように信仰に固く立って生きるかを諭しています。 大ローマ帝国であっても『草はしおれ、花は散る』のですから、しっかりみことばの理解と明確な確信に立ち、何を捨て何を慕い求めるかを見極めるように伝えています。古い生活を悔い改め、バプテスマをもっ新しくされたその経験胸に、神のことばを求め続けるよう勧めています。 その基礎は『主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました』この経験です。全く新しい基準の内に生かされている事実を確認しているのです。 私たちはしばしば自分に対する見方の基礎を、自分が成し遂げたことに置きます。しかし、私たちとキリストの関係は、私たちの仕事、成功、健康、知識等よりもはるかに重要です。私たちは神の民として選ばれたのであり、他の人々に神の素晴らしさを示すために召されました。私たちの価値は神の子どもであることですので、しっかり心に刻み、自分が成し遂げたことに心奪われることの無いようにしましょう。 あくまでも自分が与えられた役割をしっかり踏まえて、その役割を主の来たりたもうまで果たさせていただきましょう。 |
濱野好枝 |
2月のみことば |
さあ主に立ち返ろう。私たちは知ろう。 |
ホセア書6:3 |
”立ち返る”とは、元の位置や状態に戻る。心を奪われていた状態から本来の自分に立ち戻る。悪しき効果を伴った行為から自分に立ち返るということです。 神様以外のものに心を奪われていた私たちは、イエスキリスト様の所に帰りましょう。 一度この素晴らしい神の恵みを体験した人々が、色々なキッカケで神様から離れてしまうことがあります。 聖書に「わたしと誓いを立てたわたしの民をわたしの下に予備集めよ」との言葉があります。 信じてバプテスマを受けたということは、神様と約束を結んだという印が心の中にあるのです。 イスラエルも、アブラハム契約、ダビデ契約といって神との約束を結んでいます。ですから、背いても、離反しても必ず帰って来るのです。 その足が早められるよう愛のことばで”立ち返ろう”と促しているのです。一方、”主を知ることを切に追い求めよう”とあります。 ”知る”とは、合わせられる(結合)という意味があります。その結果、産み出されるものがあるということです。 創4:1で「人はその妻を知った」と記されています。その結果「彼女は身ごもってカインを産み....」とあります。 命の関係です。産み出されるものがあることを顕わしています。 私たちが主を知ったとは、神の救いを我が身に受け、永遠の命があるということなのです。 長血を患った女が、イエスと弟子たち、群衆がぞろぞろと歩いている所に入り、「その衣にだに触らば救われん」(マルコ5:28)とイエスの衣の裾にタッチすると、 たちどころに血の元が止まり、救われました。癒し救いの体験をしたのです。 色々な情報や煩雑な事象に捕らわれる時代に生きている私たちが真に求めることは【主を知る】ことです。 それも切に追いかけて行って【主を知ることを求め続けよう】と神は叫んでいるのではないでしょうか。 私たちのいのちが枯渇してしまうことを神は憂いておられるのです。 |
濱野好枝 |
1月のみことば |
今が主を求める時だ。ついに主は来て、正義の雨をあなたがたの上に降らせる。 |
ホセア書10:12 |
一年一年着実に歩み続け、また新しい年を授けていただきました。聖書は「恵みの冠」との言葉を用いています。正に神が与えてくださいました。 一月の御言葉は、すぐにもアッシリアに滅ぼされようとしている北イスラエル王国ヤロブアム2世の時代BC700年頃、ホセアが預言した言葉です。 今までだって、いつも主を求めてました、と言い訳したいイスラエルにホセアがこの言葉を告げたということは、偽りを重ね、石のような頑なな心で偶像の祭壇を増やし続けるという、神への反逆の罪を犯しているイスラエルに悔い改めの機会を促しているのです。 アッシリアが滅ぼそうとしている様子は若き雌の子牛が麦打ち場でゆっくり踏む程度の仕事をしていたイスラエルに、アッシリアが重い軛をかけると著しています 。 イスラエルはすっかり忘れているのです。祝福は神(ヤハウェ)からであることを。「すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。」ヤコブの手紙1:17 祝福の雨を降り注いでいただくには、私たちは心翻して神に立ち返る必要があります。いままでの悪をキッパリ捨て去ること、新しい者に造り変えてもらわなくてはなりません。その上で 新田を耕す働き乗り出して行きましょう。開拓は大変困難な仕事ですが、神により頼んでいきましょう。自ら困難を通ってきたホセアはその中で神の恵みを体験してきました。神を求めさえすれば、困難苦難は問題ではありません。 救いと恵みは雨のごとく降り注がれるのです。 神を求める年としましょう。 |
濱野好枝 |