12月のみことば |
主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。 |
イザヤ書7:12 |
ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。 |
イザヤ書9:6 |
今月のことばは 2000年前聖い、義なる(正しい)神は結婚という方法ではなく、赤ちゃんをこの地上に送り出してくださいました!!神様はイザヤ通して語られた通り、一点も違うこと無く実現されたのが、クリスマス(救い主イエス・キリストの降誕)です。驚くばかりです。 神様はこの事を徴として仰せになりましたが、この徴を受けとめて、救い主イエス様にお会いになった人は、次の数人の人でした。 私はその場に居ませんでしたが、信仰の目をもって見、信じ、救い主のお誕生を心から喜んでおります。 神様が3月に私に語られたことばがあります。 10人に満たない人々に祝福された2000年前のクリスマスではなく、全世界すべての人でお祝いするクリスマスでありますことをお祈りします。 |
濱野好枝 |
11月のみことば |
あなたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っています。 |
Uテサロニケ1:4b-5a |
私はイエス・キリストが再びこの地に来られることを信じています。又、その日が速やかなることを日々祈り続けています。 今、そのことを思いますと、私が祈っている祈りは「早くこの地上に神の正しい裁きを与えたまえ」ということなのです。 聖書は告げています。迫害や苦難に耐えながら信仰を全うすることにより、神は私たちに、神の国をプレゼントしてくださると約束しておられます。 “迫害”とは、キリスト信仰のゆえに福音に敵対する外部の人々から、キリスト者に加えられる圧迫や苦しみである。 “艱難”とは迫害やその他のときに、キリスト者が出会うあらゆる試みや困難を含む一般的、包括的表現である。 このように迫害や艱難さえ、神は用いてくださる。 苦難と苦悩にあえぎながら人生を送ったヨブは、「私は、肉を離れて神を見る。」と言いました。 又、「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりにの上に立たれることを。」と言い、必ず贖い主キリスト様は地の上に立たれる、再臨する。と 神の力強い御手に依り頼む生涯、神を愛する生涯は確実に“完全な救い”に至るのです。 旧約聖書士師記にデボラの歌が記されています。 「このように、主よ、あなたの敵が皆滅び、主を愛する者が、力強く昇る太陽のようになりますように。」 太陽は中心部から輝いています。 神が太陽を創造されたのは、空の見栄えを良くするためではなく、地上の生命を維持するためです。 今月も限りない祝福が皆様の上に注がれますように。 |
濱野好枝 |
10月のみことば |
主はその御目をもって、全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。 |
2歴代誌16:9 |
2歴代誌14章から16章に渡って、南イスラエルユダ王国の王として、bc910年から41年間統治したアサ王の記事が記されています。 この当時アサは賢くも、神と近い関係を持つ人々を歓迎し、その話に耳を傾けました。 しかし、治世36年に、イスラエルのバシャがユダに攻め上ってきて、塁を築き、南アサ王のもとに出入りできないようにした時のことです。 神に対する過ちを認め、悔い改めるように。 神様の祝福が豊かでありますよう、お祈りいたします。 |
濱野好枝 |
9月のみことば |
主よ、偉大さ、力、耀き、栄光、威厳は、あなたのものです。 |
歴代誌上29:11 |
これは、ダビデ王の祈りの一部です。 ダビデはその子ソロモンに王位を譲る時、神殿建設を含めた「遺言」を伝えるため、イスラエルのすべての長、つかさ達を招集しました。 その中で、ダビデは全会衆に向かって このように、国民のため、子どものために、神に祈る者でありたいと思います。 |
濱野好枝 |
8月のみことば |
罪の報酬は死です。 |
ローマ6:23 |
神の実在の証明は、私=自分がいること。 徳川家康の遺訓の一つ 地獄の話は、新約聖書ルカによる福音書に、ラザロと富める人の物語をイエス様が語られています。 |
濱野好枝 |
7月のみことば |
だれでも先頭に立ちたいと思う者は、 |
マルコの福音書9章35節 |
聖書を読みますと、神様が願われていること、又どこを目指して時代を進めておられるかが、少しわかってきます。 今月のみことばのマルコ9章全体に溢れています。 真っ暗な暗闇(十字架)に進まれる歩みの中で、神様の素晴しさ、真、真理、行くべき道を、この世のあらゆる人々に語り続けられました。 私たちが一番恐れるもの「死の呪い」は、キリスト様を知らず、信ぜず死を迎えた臨終に、はっきりあらわれます。 このような神様のご配慮、愛溢れる心遣いを私たちにかけ続けておられる方を、あなたは認め、受け入れますか。 罪深い私たちに対しての今月のみことばを、あなたはどのように受けとめられますか。 神様の祝福が豊かでありますようお祈り致します。 |
濱野好枝 |
6月のみことば |
エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。 |
創世記5:24 |
創世記5章1 -2節に神は人を創造したとき、神の似姿として人を造り、男と女に彼らを創造された。 このように私たち一人一人は、神の創造の作品で、神の似姿に造られたことがわかります。 しかし、その中で 新約聖書でこれを「信仰によってエノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていたのです。」ヘブル書11:5 私たちの歩みも、神様が私を造ってくださり、私の存在を喜んで、祝福を豊かに注いでくださっていることを覚えつつ、神様の素晴しさを表しながら、「死ぬのではなく」「神がおられる天に神が移してくださる」時を、どのような中にあっても、心待ちにしていきたいと願います。 新聖歌355番4節 |
濱野好枝 |
5月のみことば |
身を慎み、目を覚ましていなさい。 |
Tペテロ5:8 |
イエス・キリストの弟子ペテロが、手紙を受け取る人々が置かれている状況を熟知、直視しながら送りました。又ペテロは私達各自の持ち場、立場において、主なる神の恵みを味わい知って、めぐみに堅く立ち、善行を積んで、積極的に戦い進むよう励ましています。 上記のみことばは、ペテロ自身が主イエス・キリストの弟子としての歩みの中で失敗した過去を踏まえてのことばです。 主が十字架の前の苦しみの時の、いちばん信頼していた弟子3にんを連れて、祈りに行かれたゲッセマネの園の出来事なのです。 「惑わしに陥らないように、目を覚まし祈っていなさい。」と言われて、苦しみ悶え祈られる主と共に祈り支える役割を果たすことが出来ず、眠ってしまったのです。 まさにこの事は、霊の戦いに敗北したペテロの姿でした。 サタン=悪魔は、キリスト者に向かって、訴え、中傷、悪口雑言で吼えてきます。 肉の慾、目の慾、暮らし向きの自慢などあらゆる物事をもって、揺さぶってきます。「良いもの」とされていることで思い惑わせることも、悪魔の策略です。 聖書にマリヤが、イエス・キリストのことばにじっと耳を傾けたのに対し、主に仕えるつもりで、心が奪われ、主ご自身をなじる言葉で罪を犯しました。 自分自身を霊的に武装するには「祈り」です。祈りによって武装し、敵である悪魔に勝利していかなくてはなりません。 「祈り」は私たちに「身を慎む」ことを身に着けさせてくださいます。 「身を慎む」とは思慮深く振る舞う、心を確かにするとも訳すことが出来ます。 祈りのために、したいこと、欲していることも自制し、専念できるよう、自ら変えていきましょう。 ダニエルのように、心を定めて、時間を決めて、顔を神様に向けて祈りましょう。 正しい審判者、正義を行われるお方は、もうすぐ来られます。 |
濱野好枝 |
4月のみことば |
わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。 |
ヨハネ6:39 |
この原稿を書いている最中に、色々な情報が入ってきます。 新型コロナウィルス感染拡大、爆発的な広がりはオーバーシュートと繰り返し流れてきます。 目に見えないウィルスとの戦いは続いていきます。 両手を上げて神に祈り求め続けています。 絶対に感染しないようにしなければなりません。 キリストの御名の為に。神はどのように考えておられるのでしょうか。と問い掛け続けてきました。 神の答えは、イエス・キリストはキリストのものとされた私たちを、一人も失うことなく、完璧に守ると約束してくださいました。 旧約聖書ダニエル書たで、ダニエルは、周りの人が陥れようと策略を巡らす中で、1日三度の全能な神に礼拝を捧げることを止めませんでした。礼拝を守り続けてきました。 真の神を礼拝している為、ライオンの穴に投げ込まれました。 お腹を空かし切ったライオンは、ダニエルを食べませんでした。(『ライオンも仲良し』)と子ども聖書物語に題がついています。 エペソ人への手紙では、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。と書かれ、その戦いの武装は、腰に真理の帯、胸に正義の胸当て、足に平和の福音の備え、信仰の盾を持ち、救いの兜、聖霊の剣、神のことばで、悪しき者の火矢を消すことが出来ると。 私たちの戦いの完全武装と共に、忘れてならないのは、私たちを救い、永遠のいのちを与えてくださった救い主である神のみこころは一人も失わせないと、固く約束してくださったのです。 「だれが私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか、こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」 神の祝福をお祈りします。 |
濱野好枝 |
3月のみことば |
イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ。 |
アモス書4:12 |
この預言をしたアモスは、エルサレム南19キロメートルにあるテコアの農夫であった。 「神がわたしを取られた」と証しした。そこには神の一方的な選びであることがわかる。 当時BC792-753年、北イスラエル王国にはヤロブアム2世がおり、南王国にウジヤ王がおり、戦いに戦いを重ねて、ダビデ,ソロモン王時代に持っていた境界線に近い所まで回復した。 この軍事的隆盛に伴い、経済的繁栄もやって来た。 しかし、豊かな生活は特権階級のみで、貧しい弱い者たちは食い物にされるという状況であった。 このような時に神はアモスに言葉を与えて、かかる状況は続かない。やがて不道徳な世を神は罰すると。 アッスリヤの大軍が押し寄せてくると語らせた。 イスラエルの犯した罪とは アモスがヘブル語でヤーウェという神の名を52回また他の言い方での神を34回も使って語り続けました。 力ある神、聖く、正しく、罪を憎む方、なに人もこの方の前には立つことが出来ないと。 しかし、神は憐れみをもって、神のひとり子イエス・キリストをこの世に降され、人類の罪の処罰を行われました。十字架によって。 罪赦され、キリストのゆえに神の前に立つことが出来る者に変えてくださいました。 みことばにある“神に会う備えをせよ”は、@〜Oのイスルエルが犯したと断罪された罪、勿論私たちににもある罪です。 迫り来る時代の終焉を感じておられると思います。 キリストの身代わりの死を私のためでしたと受け入れて、神の前に立つ者とさせていたきだきましょう。 |
濱野好枝 |
2月のみことば |
公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。 |
アモス書5:24 |
新年聖会で、「きよめ」とは、きれいにすること、不浄なものを払拭すること、清掃することと聞きました。 聖書のヨハネの福音書で、イエス・キリストがサマリヤのスカルの井戸端で、女性に『この水を飲むものはみな、また渇きます。しかしわたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。』と話しました。 イエス・キリストと話しているうちに、キリストの呼びかけが変わっていくのです。 ユダヤ人⇒ヤコブより偉いお方⇒主よ⇒預言者⇒キリストと呼ばれているメシヤと変わっていきます。 自分の不設楽な過去を言い当てたと。町の人々に話に行きます。サマリヤの人々はこの女性の証しを聞き信じ、イエス・キリストに会って話を聞き、キリストを信じました。サマリヤの町の霊的復興が起きました。 イエス・キリストを大歓迎して2日間とどまっていただいたと記されています。 イスラエル人はサマリヤ人を偶像礼拝の汚れた人々と決めつけ、見下していました。 当時このような態度であったイスラエルの人々は紀元前700年、アモスが預言者として立てられていた時も、変わらず、社会的不正、道徳的腐敗がはびこっていました。 法廷においてさえ、金持ちが裁判官に賄賂を掴ませ、貧しい人々が悲惨な状況に追い込まれ、のけ者にされていました。 アモスはイスラエルの人々に向かって「わたし(神)を求めて生きよ。」主を求めること。信仰の中であわれみを待ち望むこと。主の呼掛けに応答して、主に帰ること。偶像礼拝と決別すること。 自らの歩みを省みて、活ける者とされ、命の水を谷川のように流れさせていきましょう。 私たちの生きている時代はあと100秒しかありません。 |
濱野好枝 |
1月のみことば |
「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」 |
ヨハネ20:21 |
新しい年が与えられました。 2019年は異常気象で、とても雨の多い日々でした。台風も沢山やって来ましたし、日本中水害で悩まされました。 青梅教会の北側白壁はうす緑になってしまいました。 今年は神様からの恵みの雨を注いでいただいて、素晴らしい一年としていただきたいです。 とは言え、一年一年と私たちは栄光の中に入れられる時が近づいていることは確かです。 イエス・キリストが復活された時、弟子たちは閉めきった部屋の中で不安に囲まれていました。 十字架につけられてしまった師であるイエス、そのイエスを十字架につけたユダヤ人達の攻撃が、自分たちに及ぶのを恐れていたのです。 主を復活させた神の力を信じることの出来ない、そのような弟子たちの前に、”平安があるように”これは「安かれ」ヘブル語で「シャローム」です。 神様の特別な啓示が、コミュニケーションがこれから語られようとしているのです。 弟子たちはイエス様の釘打たれた手と、槍で突き刺された脇腹を見て喜んだとあります。 手と脇腹につまり十字架の死に基づいて復活が顕され、弟子たちは喜びました。 この喜びと平安は、一つの使命とミッションを与える平安でした。 弟子たちは世間が怖かったのです。人が怖かったのです。おじ恐れる彼らに死にさえも打ち勝ち給うた、メシアの平安と喜びとを授けるから、出ていきなさい。 週の初めの主日礼拝でも、主に出会い、ここで喜びに満たされ、安らぎを与えられ、慰めを受けたら、遣わされる為だと受け止めましょう。 新しい年に祝福豊かでありますようお祈り致します。 |
濱野好枝 |