12月のみことば |
ホサナ、ダビデの子に祝福あれ。 |
マタイ21:8 |
待降節を迎えました。掲げたみことばの如く、救い主イエスキリストが主人公です。 新聖歌74番「世の人忘るな」ーGOD REST YOU MERRYー 1節 世の人忘るな クリスマスは 英訳は 私がこの曲を教えてくださった先生の歌い方は、何かもの悲しく聞こえました。しかし、英語で歌っているこの歌は、テンポも速く、希望に満ち溢れるものでした。そこで有名な本”クリスマスキャロル”を紹介しましょう。 イギリスの文豪ディケンズ著”クリスマスキャロル”はイギリスが大英帝国として発展した時でもありましたが、資本主義の欠点が表面化し、貧富の差が拡大した時期であり、1840年代は(空腹の40年代)と呼ばれています。 ”クリスマスキャロル”の中心は「強き者持てる者は、弱き者貧しき者に愛の手を差し伸べよう。愛のある繋がりをもつことなのだ。」のメッセージが込められています。登場人物スクルージーがクリスマスイブに、超常的な体験から過去、現在、未来を旅した結果改心する物語です。 私たちが愛のある実践を行うようになるため、イエス・キリストがこの地上に来られ、貧しき者となられたことを深く覚えるクリスマスなのですね。 キラキラしてはいないけれど、 |
濱野好枝 |
11月のみことば |
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。 |
ルカ14:27 |
この場面は、イエス・キリスト様がエルサレム巡礼の道すがら話した場面です。 イエス様はご自分が十字架への途上にありましたが、ついて来た多くの群衆は、神の国がすぐにでも来、イエス様がユダヤ人の王となってローマから独立させてくれると考えていました。そのような中で上記のことばを語られ、わたし(イエス)は、弟子を求めている、その弟子の覚悟を語られました。 イエス・キリストに従う者は、世の権力と栄光に至る道にいるのではなく、一番大事なものを棄てる覚悟、十字架上の男と同じ苦悶を自ら受ける覚悟でいなければならない。 自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまで憎まなければという覚悟を求めています。 イスラエル人は「AよりBを愛する」という言い方を「私はAを憎む」という言い方を用います。 弟子にならずともイエス様に従うことはできます。主の兵士にならなくとも非戦闘従属者となることは出来ます。「主よ、主よ」と呼び求める人は多くいても、イエス様をすべてに優先させイエス様に従っていくこと、そして自分のすべてを二の次にする姿勢、犠牲を払う覚悟をもって従う人はどれだけいるだろうか。2つの例えをもって弟子の姿勢を問われたのです。 1つはブドウ園の中に建てる塔の建設にかかる費用を慎重に考え計算するでしょう。もう一つ王がほかの王と戦いを交えようとする時、戦力をよく調べ、戦力不足と判断するなら講和を結ぶでしょう、と。 キリスト様の弟子となることは”恰好いい”ものではありません。「イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て」ヘブル書13:13 と、このような覚悟をもって主の求めに応じようではありませんか。 |
濱野好枝 |
10月のみことば |
見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。 |
ハバクク書2:4 |
預言者ハバククはBC612-589年、イスラエルがバビロン捕囚される時代、エレミヤ、ダニエル、エゼキエルも立てられており、共に活躍した人です。 南ユダ王国善王ヨシヤの死後に治めたエホアハズ、エホヤキム、エホヤキンとゼデキヤの4人の王は悪しき王であったその頃のことです。エホヤキム王が即位した頃、ユダは暴力、闘争、背信が蔓延してひどい状態でした。 神が与える幻を書き記しなさいとハバククは告げられ、その幻を板の上にはっきり書き記しなさいと命じられました。今も又後世の人にも知らせるようにと命令した真理のことばでした。 それは、第一にこれは読んだ者が急いで人に知らせなければならないほど大切な事柄であり、第二にそれは現在と未来の時代に対しても重要な意味を持っているということです。そしてこの幻(啓示)は定めた時、終末の時に関係しています。その幻の実行が遅いように見えても必ず成就するのだから「忍耐をもって、待て」ということなのです。 彼、ハバククは自分が生きている社会に暴力が蔓延しているのにナゼ神はそれを見過ごしにされておられるのか。との問いかけに、神はユダの不正と暴力に対し、カルデヤ人を遣わすと応えます。そして終りについて、告げ「偽っていない。遅くなっても必ず来る」との答えにハバククにはもっと大きな問題提議となりました。 ユダの堕落はひどいです。しかし、それを裁くためにもっと悪い民を用いるのはナゼ。カルデヤ人の心は高ぶって素直でない。自分達の力に信じ、自分達の力を神にする、このカルデヤ人に対して神は罰せずにはおかない。第二のナゼが冒頭の『正しい人はその信仰のよって生きる』という思想に導かれるのです。 「正しい人」とは、第一に神を信じ、律法を守っている人を表します。創6:9にノアは正しい人であった。第二に神を信じ、一見不可解のようでも神の約束を信じたことが「義」即ち「正しい人」と認定されるという神よりのハバククへの答えでした。 正しい人ー即ち生活が神の義によって貫かれている人は真に生きることができる。神によって「正しい」と判断された者は「生きる」宣言である。神に対する揺るぎない確信はハバクク書3章の最後に神への賛美となっています。 ハバククのナゼはみことばによって確信となり、神への賛美と変えられました。 私たちの歩みの中での力強い糧になることと信じます。 祝福をお祈りいたします。 |
濱野好枝 |
9月のみことば |
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。 |
ヨハネの黙示録3:20 |
ヨハネはキリストからの幻を受け、アジアの7つの教会に対し、全時代のクリスチャンたちの益となるようにその幻を記録しました。ここに記されていることを行う人たちの祝福を約束している唯一の書です。 ラオデキアの教会は、7つの町の中で最も裕福で、銀行組織は出来ておりましたし、繊維、染色産業も盛んであり、目の軟こうを生産した医学校もありました。 しかし、一つ水の問題があり、一度苦労して遠くの温泉から町へ水を引くための水道が造られました。しかし、町に水が到着する頃になると、熱くもなく、冷たくもなく生ぬるくなっていたのです。 このことをご存じのお方は、ラオデキアの教会の人々が、物質的財産こそ霊的祝福と思いこんで贅沢な生活、自己満足して現状に甘んじている様子を叱責されました。 自己満足というものが主を教会の外に締め出すという、恐るべき結果を招くことを示しています。 ラオデキアの人々を愛して止まない神様は、神様からの懲らしめをしっかり受け、悔い改めなさいと諭しておられます。 火で精錬された金(永遠の命)、裸の恥を覆う衣(清い神よりの義)、心の目が見えるように目薬(イエスキリストの血の注ぎ)、これらすべてはお金で買うことの出来ないものです。このことが整う時、神様の期待しておられる食事の交わりに与れるのです。 ヨハネは手紙の中に『私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたに伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。』(ヨハネの手紙1:3) 神様は、この交わりを願い、私たちの心の戸を叩いておられるのです。 祝福の約束を受け取りましょう。今月も主の祝福が豊かでありますようお祈りいたします。 |
濱野好枝 |
8月のみことば |
心騒ぐ者たちに言え。 |
イザヤ書35:4 |
34章の神の審判が記されている暗い描写とは対照的に、35章は神の栄光の国の到来、エデンの園の麗しさの回復、まさに、黙示録21-22章に表されている神の国の祝福が描かれています。 希望と祝福の約束は、どんな困難な状況のもとにあっても、キリスト者(神の民)として忠実に歩む励ましと慰めが与えられます。 弱った手を強め、よろめく膝をしっかりせよ(1-2)と有りますが、神の審判のあまりの厳しさの故に、元気を失っている者に「元気を出しなさい。神様が顧みてくださる。救ってくださる」と民に預言するようにイザヤは神様に命じられました。 『敵を打ち、悪に報いる神が来られる』新共同訳聖書は表現しています。 ‘敵‘と思われるものは、何も見えるものとは限りません。心中に有ります。不安(イザヤは心騒ぐと表現しています)。その不安は死へと繋がっていくのです。神の敵サタンは、高ぶらせることも上手ですが、落胆させ、自己憐憫にも導く名手でもあるのです。 しかし、神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加えてサタンに勝利の宣言を突き付けることの出来るように計らってくださいます。 心騒ぐとき、1−2節のみことばのように手を挙げて祈りましょう。ひざまずいて祈りましょう。 |
濱野好枝 |
7月のみことば |
ヤベツはイスラエルの神に呼び求めて言った。 |
歴代誌第一4:10 |
私の家の本棚に、「ヤベツの祈り」という本が2冊あります。1冊はブルース・ウイルキンソン著、もう一冊は平野耕一著の2冊です。 平野耕一先生の本の最初に次の言葉が記されていました。 ―多くのクリスチャンが世界最大のうそを信じていることに気が付きました。「人は自分の運命を選ぶことができない。すべては全能の神によって決定されてされてしまっていて、御心によって決められた通りに起こっていくだけだ。」― これを信じた人は祈らなくなります。これは巧妙に仕掛けられたサタンの罠です。サタンは、ヨハネ8:44に記されているように偽りの父です。偽りの根源です。と。 ヤベツという人物も、エリート部族ユダ族に属さなかっただけではなく、契約の民イスラエルでもなかったのです。レカブ人ではなかったのかと。歴代誌の記者は、ユダ族の系図に位置付けました。 私は20年前にこの本と出会い、早速祈り始めました。「私を大いに祝福してください。私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて、私が苦しむことのないようにしてくださいますように。(新改訳聖書第2版) この祈りをすることによって、私自身が変えられました。私の願いの一番は、私が苦しむことのありませんようにでした。10年間祈りの結果は、いつの間にか苦しみから解き放たれました。そればかりでなく、地境が広げられたのです。青梅教会南の土地が駐車場として使えるようになったのです。 20年前までは、私の召されたのはイエス様を愛し、お仕えしたいとの一心で、メッセージを取り次ぐことなど思いのほかですから、ごく稀にすることがあったのですが、驚くことに、祈り始めてより、現在まで、この働きにも従事せられています。また改めて祈り始めました。どのような祝福が備えられているのか、地境をどれだけ広げて下さるのか、神の御手がともにある幸いを覚えワクワクしています。 平野先生は最後の締めくくりの文で、「ヤベツの祈りは、一つの言葉を与えることにより、教会を一つの民にすることができます。」と述べておられます。 この祈りをささげ、私たちの未来を祝福に満たされたものにしていただきましょう。 |
濱野好枝 |
6月のみことば |
こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。 |
2コリント5:20(2017版新改訳) |
「神と和解させていただきなさい」の箇所は しかし、私たちの生きてきた道筋を思い返してみると、”何故なんだ””苦々しい””辛いことが次々と起きるのだ””むしゃくしゃする””赦せない”などと心で思い、口から出していました。落ち込んだり、不安にさいなまされたりしました。その原因を預言者イザヤは「あなたがたの咎があなた方とあなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪との 仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ聞いてくださらないようにしたのだ。手は血で、指は咎で汚れている。唇は偽りを語り、舌は不正を告げる。」このように宣告しています。 確かに、手で舌で指で、汚れを行ってきました。もう完全にアウトです。 今月のことばの少し前の節には、「私たちはみな善であれ、悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストの裁きの座の前に現れなければならないのです。」とあります。 そのような中で、神様の全人類に対する愛は、熱烈で、私たちが願う願わざるに関係なく、[神は罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。] 私たちは、このキリスト・イエス様が私たちの罪を全部引き受けて下さいましたので、このキリスト様のお蔭で神様と和解することができるのです。どうかお願いしますとの、差し出された神様の熱き愛を受け取りましょう。 |
濱野好枝 |
5月のみことば |
あの方が言われることは、何でもしてください。 |
ヨハネ2:5 |
このことばは、ガリラヤのカナでの結婚式で、イエスの母マリアが給仕の人たちに言った言葉です。 イエスも弟子たちも参列していたと記されています。母マリアはすでにそこにいて、結婚式の奉仕の一人であったと思われます。マリアの親戚にあたる人の結婚式なのでしょう。「葡萄酒がなければ、喜びなし」とのユダヤの書物にあるほどですから、ぶどう酒がきれてしまうということは、喜び溢れる祝宴も台無しになってしまいます。私たち牧師は 聖礼典を行う時、式典礼文を用います。その中の結婚式の式辞に「キリストはガリラヤのカナで行われた結婚式に列し、このために最初の奇蹟を行ってその式を祝福されました。」 とあります。これは私たちの新しい門出を祝福される神様であることがわかりますね。 母マリアは、キリストの神聖を、この地上に来られた時からよく理解していたので、ぶどう酒が無くなったこの時に何とかしてくれるに違いないと思ったのです。 マリアの訴え請い願う場面に、キリスト様は、「お母さんまで気になさることはありません。あなたは安心して飲んでいてください。僕は僕の働くべき時が来たら、ちゃんとやりますから。」と言われたのです。。その言葉を確と受け取り、上記のみことばを給仕の人たちに言いつけたのです。 これは大事なことです。キリスト様がお働きになるのは、私たちが訴え圧力をかけて、イエス様に言うことを聞かせるというのではなく、それこそイエス様の時が来たらイエス様は働かれるのです。私たちはそれを待つだけです。待つのですが、同時に私たちの方でもなすべき義務はすべて滞りなく果たしつつ、しかもなお、主の働き給う時を待つ。このような態度が万事につけて必要です ”立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。”イザヤ書30:15 神様の祝福をお祈りいたします。 |
濱野好枝 |
4月のみことば |
わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。 |
マルコ15:34 |
今年は4月17日がイースターです。4月10日がパームサンデー(棕櫚の日曜日)と呼ばれ、イエス・キリスト様が最後のエルサレム入りで、この日から受難週が始まります。 イエス・キリスト様が十字架に向かう道のり、また十字架にかけられ、全人類の救いを成し遂げられた道のりを思い、過ごします。 十字架に掛けられるまで、イスラエルの人々、学者、祭司、祭司長に教えを説き、神の知恵を示されました。 木曜日ゲッセマネで徹夜の祈りの後、イスカリオテユダの裏切りのよって逮捕され、大祭司の所に連れていかれ、その後アントニヤ城塞の総督ピラトの前に立ち、ヘロデ大王 の宮殿へと疲労困憊の中、最後総督ピラトの官邸で、死刑の判決が下されました。 その後は、”これが神様なのか”と思うほどの姿を人々の前に立たれました。 嘲られ、唾をかけられ、ローマの兵士に鞭打たれ、棘の冠をかぶせられ、ゴルゴタの丘(処刑場)へと登って行かれたのです。そこで十字架につけられるのです。 イエス・キリストが十字架の上で発せられた7つのことばを紹介いたします。 T わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。 想像を絶する苦しみの中で、共に十字架に附けられた強盗殺人の死刑囚を天国に導き、母マリアの生末を案じ、弟子ヨハネに託されました。 救いの御業の完成は、ここで終わりではないのです。 死人の中から、地獄を打ち破り復活されたのです。信ずる私たちの初穂として甦られたのです。永遠の命を与えてくださいました。 十字架の苦しみの後の栄光は、びっくり仰天するものに変わりました。五感で体験不可能なものでした。私たちのこれからは希望に満ち溢れているのです。 この永遠の命を私たちに与えるために、イエスキリスト様はこの地上に来てくださいました。あなたもこの命を受け取ってください。 祝福をお祈りしています。 |
濱野好枝 |
3月のみことば |
人はみな、火によって塩気をつけられます。 |
マルコ9:49 |
イエス様は信者に見い出されるべき3つの特性の説明をするのに「塩」を用いられました。 1つは、神の契約を思い出されるいけにえをするとき用いられた塩のように(レビキ2:13)。神の忠実さを覚えている。 2つ目は、塩が肉の味を変えるように(マタイ5:13)。私たちの生きる世界の「味」に違いを生じさせる。 3つ目は、塩が腐敗から食べ物を守るように、社会に於ける道徳的腐敗を防ぐ存在。 もうお分かりのことと思います。聖霊による魂の変革が与えられるのでなければ、上記のような働きは出来得ません。 マルコ9:49のみことばの前には、小さき者に対する反応について現されています。 躓かせるということは、主に対する不徹底な態度、神の国に対する信仰、知識の欠如、思慮深さのないことなどいろいろ考えられます。 聖書は信者、火によって塩気づけられた弟子は、綿密な計画を立てる者(参ルカ14:28-30)(31-32)、御国への揺るぎない献身(ルカ14:25-27)、自分の命まで憎む決意がなければ、キリストの弟子になることはできないとイエス・キリストは、塩味の利いた者聖霊の火によって清められた者、真のキリストの弟子を招いておられます。 あなたは火によって塩気をつけられていますか。 真のキリストの弟子となる覚悟はありますか。 |
濱野好枝 |
2月のみことば |
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。 ヨハネ15:5 |
ヨハネ15:5 , エペソ1:22 |
最初のみことばは、イエス・キリストはブドウの木で、私たち信じる者はその枝ですと、主キリストは語られました。 このみことばから、”園枝”と名前をつけられた方がおられます。 木には多くの枝が生え出で、その枝からまた枝が伸びています。 ぶどうが実を実らせている様子を思い描くと、イエス様が私たちと手を繋ぎ、私たちと多くの愛する人たちと手を繋いでいる姿となるのではないでしょうか。 繋がっているというのがポイントです。何かの力が加わらなければ折れてしまうことはないでしょう。 もう一方エペソ人への手紙のみことばは、キリスト教会のかしらはキリストで、そのキリストに結び合わされて教会が建て上げられています。教会はキリストによる神の愛に満ち溢れているのです。 しかし、聖書は警告しています。教会の中にキリスト以外のお方を礼拝する人々や、自分の見た幻に依り頼み、思い上がり、他のキリスト者を断罪し教会の中を乱す者が現れると。この乱す人々の特徴は、威張る、批判する、人を見下す等。キリストをないがしろにし、神に逆らうのです。 その結果、教会は分裂し、分派も起こるという事態に陥ります。バラバラになってしまいます。 断絶された今の社会情勢の中、教会も危険にさらされているのではないかと危惧しています。 「かしらなるキリストに結び付くことをしない」そのようなことからキッパリ縁を切って、結び合わす、繋がっていくことを互いに努力していかなければなりません。 キリストによる神の愛の絆で固く繋がってまいりましょう。 |
濱野好枝 |
1月のみことば |
鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を舞い、翼を広げてこれを取り、羽に乗せていくように、ただ主だけでこれを導き、主とともに異国の神はいなかった。 |
申命記32:11ー12 |
新年おめでとうございます! 今年、上記のみことばを主よりいただきました。 その記事を調べることによって、神を知り、神が私たちに対し、かくも豊かに、恵みと慈しみの溢れる生活を与えようとしておられることがわかります。 父なる神様は、私たちの全生涯の行程を、すべての領域に渡って行き届いた配慮をなさるお方です。 この申命記32:10-14にはその事がよく記されています。ここに登場する鷲は、すべての鳥の中で最大級と呼ばれる鷲は、翼が大きく、風に乗って飛び、嘴、爪は先が曲がって鋭く、小獣、鳥、魚を捕食します。大空高く飛びますが、目は遠くを見ることができ、水の中にうごめく魚さえも急降下して素早く捕まえてしまいます。 この箇所は、鷲はひなを巣から呼び起こし、飛ぶ訓練をさせる様子が描写されています。 巣からひなが羽をバタバタさせながら、真っ逆さまに落ちていくところをサッと急降下して羽を広げてその上にのせて飛んで行く姿です。 ひなが、一人前に飛び立てるよう鷲はひなを訓練します。その厳しさと同時に徹底した守りが描かれています。 神の民を導かれる主は、荒野の旅路でも、ヨルダン川東側の文字どうり高い所に導かれる描写を橋渡しとして、約束の地に入ってからの将来に渡るまで及ぶのです。この神様は、鷲のように遠くまで見渡すように、私たちの将来まで見通して、導き、注意深く配慮し続け、私たちを取り囲んで守り、育ててくださいます。 愛の瞳で見守り、私たちの訴え、願いを聞いてくださる耳がある生きて働くお方なのです。異国の神ではありません。生きておられる主なのです。 今年こそこのお方に真剣に依り頼んで生きましょう。 |
濱野好枝 |