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2023年度
12月のみことば

この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった。」

コリント人への手紙第一2:8-9

 このみことばの後に、それを神は聖霊によって啓示してくださいました。と記してあります。

 聖霊の働きは、キリストが完成した救いの真理を一人一人に解らせてくださることであります。

 初めは人間に知られていなかったこのご計画は、救いを与えるというものでした。
 神様が隠しておられた知恵は、2000年前にベツレヘムむさき馬小屋に顕されたのです。驚くべきことが起こったにも関わらず、当時の人々は全く知らなかったのです。
 聖書(旧約聖書)を学んで救い主の現れを熱心に調べていた学者もその場面におりませんでした。わずかな人と家畜で祝われた最初のクリスマスに降られたキリスト・イエスは、全世界にその名が知られ、広められ、生きて働くお方は素晴らしい御業を顕わし続けておられます。

 十字架の贖い(カハール)、その苦しみを通して祝福を与え続けてくださっておられるのです。

 ―幸せになりたい― 誰もが望むことですが、聖書のヘブル書5章にこのようなみことばがあります。
 「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべてにとって永遠の救いの源となられた」五感に頼って生きてきた私たちは、今、神の霊感によって書かれた聖書のみことばに信頼の基礎を置いて、幸せをつかみましょう。
 キリスト様がこの地上に来てくださって、私を、私たちを幸せにするため十字架の贖いを成し遂げて、復活され、天において執り成しのいのりを捧げてくださっておられます。

 幸せの王子様は、キリスト・イエスです。ワクワクしながら日々歩んでみましょう。

 クリスマス!キリスト教会は皆様をお待ちしています。

濱野好枝

11月のみことば

 幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった。

ルカの福音書2:40

 少年期12歳(少年期最後の年)の宮詣での主イエスの姿が描かれています。

 キリスト教会では11月「成長感謝礼拝」が捧げられます。毎年この月に行われます。

 イエス様も両親と共に、イスラエルの三大祭りの一つである『過ぎ越しの祭り』に、毎年エルサレムに上り、礼拝を捧げていました。特に『過ぎ越しの祭り」は神がイスラエルの民をエジプトの圧政から、イスラエルの民の家の鴨居と門柱に塗られた子羊の血のゆえに救い出された御業を覚えて祝う喜びの祭りです。

 エルサレムに両親と共に礼拝に上っていく様子を思い描いてみて、とても麗しい姿ではないでしょうか。イエスの両親が主の律法を完全に守ったことを強調していますので、両親の生活は良き模範であります。

 ユダヤでは13歳が成人で、シナゴグ(ユダヤ教会堂)のメンバーに加えられ、自分の責任で宮詣でをしなくてはなりません。

 イスラエル旅行へ行くと、たまに嘆きの壁の広場で成人式をしている光景を見ることがあります。家族は着飾ってお祝いに駆け付けます。その清清しい、晴れ晴れした様子は、見ている私たちをも喜びに包まれてしまいます。

 ここに12歳の少年イエスは肉体的、精神的、知的、霊的、全人格的に健やかに育っていったと記されています。

 親は子供が身体的に大きくなって、知的にも成長を遂げて欲しいと一生懸命育てています。このイエス様の記事を読みますと、親として何が大事か、何に重きをおいて子どもを養育しなければならないかをわたしたちに訴えています。

 当然マリアは、イエス様が神の子としてこの地上に送られたことを知っています。しかし、親としてなすべき見本を私たちに提示しています。マリアとヨセフは、人として来られたイエスが神を畏れて歩むよう、忠実に掟を踏み行っています。

 子どもに神を畏れて歩むことを教え育てていくことこそ、親の使命ではないでしょうか。祝福を祈ります。

濱野好枝

10月のみことば

 強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない。
 おののいてはならない。
 あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。

ヨシュア記1:9

 紀元前1400年前、ヨシュアによって著されたヨシュア記は、1章から24章まで一貫してヨシュアが「あなたの神、主があなたとともにおられるのだから」とのみことばを握りしめて110年の生涯を歩み通した物語です。

 ヨシュアはイエスと同じ名で、『ヤーウエは救い』という意味です。

 モーセに率いられ、エジプトを脱出したイスラエルの200万の民が、乳と蜜の流れる約束の地カナンを目指しました。モーセは残念ながら約束の地に入ることができませんで、対岸のモアブの地ピスガで約束の地を見つつ生涯を終えました。神は「モーセほど謙遜なものはいない」と賛辞を述べています。

 モーセの指導をま近で見ていたヨシュアが後継者となり、カナンを目指すことになりました。

 神は『見よ、わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。占領せよ』主が語られた通り民に語ったのです。

 そして、各部族から一人づつ合計12人の斥候を派遣しましたが、ヨシュアとカレブ以外の10人の斥候は、カナンの土地や先住民族の様子を見て震えおののいてしまい「とても占領出来ない」と言い、主の命令に逆らい、主に信頼せず、主の御声に従うことを拒みました。

 民は「主は私たちを憎んでおられる」など不平をこぼしました。このモーセに率いられた第一世代の人々は、荒野で屍をさらすことになりました。(40年間マナ、水、肉をもって養われ、荒野の旅の間着ていた衣も擦り切れず、足も腫れないとの恵みを受けていながら…)

 ヨシュアとカレブと荒野で生まれた第二世代の人々がカナンの地に入っていきました。ヨシュアノ110年の生涯は決して平坦なものではありませんでしたが、神のことばをしっかり握りしめ、モーセの後ろ姿を注視して歩み続けました。

 いつも[強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない、おののいてはならない]との励ましで背中を押され、[わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない]の後ろからヨシュアに語り続けた主は、私たちにも語り続けてくださっています。

 この主の励ましを受け取って元気になりましょう。 祝福をお祈りいたします。

濱野好枝

9月のみことば

 いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番優れているのは愛です。

コリント人への手紙第一13:13

 聖書で、
「信仰」とは、ヘブル人への手紙11:1 ―信仰は望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるもの― わかりやすく言うと、地から養分を吸い上げる根であって、イエスキリストに結び付いて命を得ること。
「希望」とは、ヘブル人への手紙6:19 ―安全で確かな魂の錨― と記されています。成長し、その命によって伸びていく枝であり、神の永遠の栄光にあずかる望みです。
「愛」とは、ヨハネの手紙第一4:10 ―私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちのために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。― つまり伸びていく枝が結ぶ実であり、キリスト信仰を通して神から与えられ賜物のことです。

 聖書はこの中で最も優れているのは「愛」です。と結論付けています。

 思い返しますと、自らこの道に入ったきっかけは、キリストが私を愛し私の罪のために死んでくださったこと、キリストの十字架上で流された血潮は、わたしの罪の赦し、またきよめを成し遂げてくださったお話を聞いたことでした。こんなみじめな私を「愛しているよ」といってくださるお方がおられるとの発見は、言葉に言い表し得ないものでした。

 この愛は ―決して絶えることがありません― と聖書は語っています。永遠になくならない。色あせしないそれどころか、日々に色鮮やかに耀き続けるのです。私は今神の愛に満たされて歩み続けています。

 [真珠湾からゴルゴタへ]の著者淵田美津雄元海軍大佐の証は、まさにこの神の愛、赦しの愛を受けたことでした。敗戦で自暴自棄になって、アメリカへの憎しみに燃えていた彼が、戦後捕虜となった日本兵がアメリカの取り扱いの親切だったこと、その収容所で一人の女性が丁寧にやさしく介抱してくれたこと、この女性の両親が宣教師としてフィリピンルソン島で日本兵に殺されてしまった重荷を抱えていても、敵を愛する両親の思いを受け止めて介抱していたことを聞きましたが、それでも赦すという思いにはなれなかった。美しい話だと思った彼に、神様は渋谷駅前で配られていたチラシを通して聖書を買い求めました。ルカ福音書23:34の十字架上から叫ばれておられるキリストのことばが胸に刺さったのです。回心し、アメリカに渡って宣教活動に励み、各地で持たれた講演会場は一杯の聴衆であったと著書に記されています。

 いつまでも変わらない神の愛を是非受け取っていただきたいと思います。

濱野好枝

8月のみことば

 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

ヨハネの福音書15:4

 🎼主はまことのぶどうの木♫という賛美があります。その中に「みことばにとどまり 愛に生きるなら この世は知るでしょう 主の救いと癒し」というフレーズがあります。

 今月のみことばの中心は『わたしにとどまる』というところです。

 イエス様はまことのぶどうの木で、連なる私たちはその枝ですから、木であるイエス様にとどまらなければ実を結ぶことができません。
 繰り返し語っておられるということは、非常に重要ということですね。『とどまる』とは、キリストに100%信頼する、依存することに他なりません。
 神の言葉に自分の全存在をかけていくことです。それにより、神のいのち、永遠のいのちの流れが私たちの内に流れ込んでくるのです。
 みことばに自らの体重をかけるとは、自分の力を放棄することで、体重をかける相手が受け止める能力があるかは、大変大きな問題です。
 勿論、命というものに真剣に向き合えばこそ、実践しようと思うでしょう。

 自分の命が限りあるもので、やがて死んで終わりと考えている人にとっては何の意味もない話ですが……。しかし、聖書はー人間は一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている(ヘブル9:27)ーと語られています。

 不安や恐れに包まれるのも、この命が脅かされ、やがて死が訪れるとの思いに縛られるからに他なりません。創られた者としての人間は、創造主に聞き従うこと、委ねることが命豊かな人生を送ることが約束されています。
 しかし、人間の罪はそのことを覆い隠してしまったのです。ー罪からくる報酬は死です。ー神から永遠に遮断されることです。神はそのようにされることを願わず、イエス・キリストを地上に送られ、全人類の罪の身代わり=十字架による贖いを実行されました。
 人間の本来の姿=神の栄光を現す=実を結ぶ生涯を実現してくださったのです。命の流れ、生き生きとした人生は、【キリストを受け入れる】という、私たちの側のなすべきことがあります。
 キリスト様との命の交流こそ真の生き生きした、豊かな身を結ぶ人生を生きることができるのです。

 酷暑の日々の中、神のいのちに溢れて歩もうではありませんか。

 祝福をお祈りいたします。

濱野好枝

7月のみことば

 あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。
神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

ペテロの手紙第一5:6

 『神の力強い御手』とは何かと言いますと、聖書にその答えが表されています。

 旧約聖書第一サムエル2章で、サムエルが与えられ、大喜びの母ハンナはこのように神をほめたたえています。
「主のように聖なる方はいません…私たちの神のような岩はありません。……主は弱い者をちりから起貧しい者をあくたから引き上げ、高貴な者とともに座らせ彼らに栄光の座を継がせます。」また
よく知っている出エジプトの記事は鮮明に、くっきり思い浮かんでまいります。

 イスラエル民族をエジプトでの苦役から解き放ち、カナンの地に導かれたお方のことです。『わたしは有る』と言われ、出エジプト記13章でモーセが民に語ことばの中に「主が力強い御手で、あなたをエジプトから導き出された。」

 イスラエルの子どもたちが初子をささげる理由を聞かれた時も「……主が力強い御手によって私たちをエジプトから導き出されたからである。」と語られています。種なしパン祭りを祝う時も[神の力強い御手で、「主があなたをエジプトから導き出されたからである」と告げなさい】とあります。

 これはとても不可能であったことを、可能にしてくださるのは「神の力強い御手」によるものだということなのです。

 私たちの救いについて考えてみると、悪魔の手から、死の呪いから解き放たれて、神の力強い御手に引いていただいていることは、奇蹟です。

 神の力強い御手が動いた時はどのような時だったでしょうか?罪の苦しみ悪魔の誘いから抜け出したいと訴えた時時ではなかったですか?「わたしはある」と言われる御方の前に両手を上げ(降参)て助けを叫び求めた時でありました。

 この記事を読まれておられる皆様は神の力強い御手を体験しておられますか?神を侮ってはなりません。

 自分の力はどれほどのものでしょうか?神の御前にへりくだりましょう。

濱野好枝

6月のみことば

 私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない。

使途の働き14:22

 5月はペンテコステ(聖霊降臨祭)6月は弾圧記念の月です。

 『ホーリネスバンドの軌跡』の本を読みますと、明治16年にリバイバルが起こり有名な新島襄も救われ、同志社大学を創立しました。大正8年から再びリバイバルが起こり長崎のメソジスト教会の伝道集会には200人以上の人が集い、救われた、(その時インフルエンザの大流行であった)とアライアンスミッションを立ち上げた大江捨一先生は語られております。その後私たちがよく聞いた昭和5年のリバイバルです。救われたクリスチャンを用いて、どんどん教会が増えていったのです。使徒の働きに記されていることが日本各地で起きていたのです。

 そのような中、日本は戦争へと進んでいきました。昭和17年キリスト教の弾圧が始まりました。1925年に発布された”治安維持法”によって。

 理由は「キリストの再臨によって世界は治められるとする教義が日本の国体に反し治安を害する」というものです。日本ホーリネス教会、無教会派、北海道日本キリスト教会、救世軍などの団体に及び60数名の牧師はじめ幹部や2500名の信徒が検挙されました。拘留中に数名の牧師が獄死するという悲劇も起きました。私たちの教団創設者森五郎先生は、昭和17年赴任先の上海で検挙され、日本に護送され、警視庁に10か月留置巣鴨の拘置所に10か月留置され、その時面会に行った谷中さかえ先生は、父である森先生は編み笠をかぶせられ顔は蝋人形の顔のように白く腫れあがっていて、まるで死人のような姿であったと語られました。

 検挙され、迫害され、叩かれても毅然と信仰を貫いた多くの聖徒たちは、心に蓄えられ聖書のことばと聖霊様の力強い助けによって勝ち進んでいきました。ー神のことばは繋がれない(Uテモテ2:9b)ー取り調べに当たった特別高等警察官たちは、クリスチャンたちの立ち居振る舞い、ことばに異口同音にこの清清しさは何処からなのかと言ったそうです。

 復活という神の力、神の国の相続にしっかり心に留めて信仰の良き戦いをいたしましょう。

濱野好枝

5月のみことば

 あなたの始まりはちいさくても、あなたの終わりは、きわめて大きなものとなる。

ヨブ記8:7

 5月は母の日があります。母の日を祝う習慣はどのようにして生まれたか諸説ありますが、よく知られているのは、100年ほど前のアメリカ、ウエストバージニア州でアンナジャービスという女性が亡き母を追悼するため、1908年5月10日フィラデルフィアの教会で白いカーネーションを配ったのが始まりという話です。日本にも母の日を祝う習慣が根付いています。

 当教会でも5月14日(日)第二聖日で母の日礼拝を行います。

 もう一つ教会の三大祭の一つペンテコステの祭りがあります。5月28日(キリスト復活より50日目)です。

 イエス・キリストのご降誕「クリスマス」、十字架の死より復活された「イースター」もとても嬉しい日ですが、生きておられる神様が聖霊様となられて、私たちの内に住まわれた記念日なのです。教会の誕生日です。

 私たちは神様に呼び集められ、キリストの十字架と復活を信じ受け入れました。罪は赦され、永遠の命が与えられ、やがて救い主にお会いでできる約束が与えられています。その約束は聖霊が降された。与えられたことの所以です。

 今月のことばは、神よりの過酷な試練(すべての財産と子どもを失い、体中悪性の腫物で打たれた)を受けたヨブが生まれた日を呪った後、友人の一人ビルダデが神の正しさを告げるとともに、最終神は祝福してくださると語ったことばです。

 イエス・キリストの救いを受けた私たちのことを思い返してください。

 信仰を持った当初、思いも考えもよらない恵み(何のいさおの無い者を祝福し続けてくださる=棚から牡丹餅のことわざの通り)をもって覆って下さった主。その主は現在このように受け止め、感謝している私たちに、その終わりは黙示録21章の世界に導かれると約束しておられます。また聖書の他の箇所では、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに御霊なる主の働きによるのです。(Uコリント3:18)

 素晴らしい月、ともにお祝いしましょう。

濱野好枝

4月のみことば

 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

Tコリント15:20

 我が家の庭は、ここ一週間で綺麗な花が咲き誇っています。

 ラッパ水仙、薫り高い白水仙、ムスカリ、パンジー、ミツバツツジ、昨年植えたカサブランカの芽が出てきました。

 4〜5か月土の中で眠っていたのが目を覚ました姿には感激でした。地球温暖化の影響なのでしょうか。桜の開花は早まり、ピカピカの小学一年生の入学時に桜は散って葉桜ということになりそうですね。

 70年前の私の入学時は、校庭の大木の桜は満開だったことを思い出しています。

 いのち満ち溢れる素晴らしい季節イースターを迎えます。

 星野富弘さんは「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのがうれしかった。」と詩画集に著しています。

 イースターはこのいのちが神様のものであり、私たちは生かされていることを喜ぶ日なのです。キリストの十字架の贖いを受け取った者は、死んでも復活することの保証として永遠の命が与えられ、やがてキリストが復活されたように復活するのです。

 聖書には息を吹き返したヤイロの娘、ベタニアのラザロ、ナインの寡の息子の記述があります。これは生き返ったことで、これらの人々は再び死を迎えなければならない肉体で生き返ったのであって、これは蘇生です。

 しかし、キリストの復活は蘇生ではないのです。朽ちてしまったもの、滅んでしまった者が死ぬことのない朽ちない霊の体に甦るのです。これは全能の神の力に依るのです。

 イエス・キリストが一粒の麦となって呪われたものとなって死に、3日目に眠った(死をキリスト様は眠ると言われた)者の初穂として命に甦られました。

 生かされる道は、キリストの復活にあります。朽ちることのない、しぼんでいくことのない身を結ぶ生涯をこのイースターに選択なさいませんか。

濱野好枝

3月のみことば

 聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。

Uテモテ3:15b

 パウロが若い弟子テモテに書き送った手紙の一文です。

 3章前半に「終わりの日」に困難な時代がやってくる。その時に備えるように備えの最も大切なことを伝えています。

 幼い時から聖書に親しんできたテモテに、第一に聖書に著されている健全な教理に留まること。第二にパウロによってキリスト・イエスに対する信仰による救いの確信を持ち続けること。テモテは敬虔な家庭に育ち、旧約聖書を教えられてきました。

 その当時は聖書と言えば旧約聖書でした。しかし、イエス・キリストがこの地上に来られて語られた言葉は、『聖書は我につきて証しするものなり』でした。旧約聖書のどこを取ってもキリストを指し示しています。

 神は自然界を通して示されました。-これを一般啓示といいます-
 イエスキリストによる救いは-特別啓示といいます-
神様を知ることは、自然界を見ることで分かります。しかし救いはイエスキリストを信じることに依るのです。

 聖書はなにが尊いかと言うなれば、人間がいかに神の前にいかに汚れた罪人であるか映し出す鏡であり、聖書は罪人が神の前に裁かれて、救い主を必要としていることを告げています。(ヨハネ3:18-21)また、罪人が自分で自分救う道のないことも明らかにしています。

 神の人類の救いの驚くべき計画、神ご自身の犠牲をもって成し遂げられました。

 人間の浅はかな考えでは思い浮かばないものです。これが神の知恵です。

 神を畏れ、聖書に親しんで困難の時代が来ようとも、恐れなく歩みを進めていくことができるのではないでしょうか。

 愚か者と主からお叱りを受けることのありませんように。

濱野好枝

2月のみことば

 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神からの警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟造り、その信仰によって、世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。

ヘブル11:7

 今月は、ノアの記事を通し、主のお出でが近づいている今、私たちがどのように備えたらよいか考えたいと思います。

 神が世界を創造され、アダム(人)を造り8125年を経て、ノアが神からの啓示を受けた時のことです。

 主は「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ家畜や這うもの、空の鳥に至るまで、わたしはこれらを造ったことを悔やむ」と言われ、ノアに「すべての肉なるものの終わりがわたしの前に来ようとしている。わたしは彼らを地とともに滅ぼし去る。あなたは自分のために、ゴフェルの木で箱舟を造りなさい。
 ……わたしはいのちの息のあるすべての肉なるものを天の下から滅ぼし去るために、地上に大洪水をもたらそうとしている。あなたは、妻、息子たち、息子たちの妻とともに箱舟に入り、ともに生き残るようにしなければならない。」と語られたことを、新約聖書ヘブル人への手紙11章では、『まだ見ていない事柄について神からの警告』だと言い表しています。

 その警告にどのように対応したかが、私たちにとって大きな指針となると考えます。

 イエス様も、人の子の到来(再臨)の時には、ノアの日と同じように実現するとお語りになりました。「あなたがたはその日がいつか知らないのだから」「用心しなさい」「思いがけない時に来ます」「泣いて歯ぎしりすることのないように」とも語られました。

 ノアの取った行動はまず、神の御前にひれ伏し、従う決意をし
   A すぐ行動に移しました(家族の救いのために)
   B 農夫であったにもかかわらず箱舟の建造に着手した
   C 作業中に雨がぽつつぽつ落ちはじめるその時も
     宣教(箱舟に入り救われるように)した
   D 神の言われる通りすべてを成し終えました(全き従順)

 自ら神の言葉に全幅の信頼を寄せ、家族の救いの為に、自分のテリトリーの分野ではない事(大工仕事)に積極的に取り組み完成させたこと。最後の最後まで諦めず、宣教を続けたことを私たちの学びとしては如何でしょうか。

 神を畏れかしこんで生きた、また神に従い通したノアに見倣い、主の日を待ち望みたいと思います。

濱野好枝

1月のみことば

 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。
 しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。

ヨハネ16:33

新年おめでとうございます。

 新しい年になっても、コロナウィルスの脅威は衰えません。むしろ拡がりの様相を見せています。
 新年に希望を見いだせない。と思われてはいませんでしょうか。

 イエス・キリストに希望があります。その語られたことばに耳を傾けてください。

 今月のことばのヨハネの福音書16章のこのことばは、14章から17章まで、イエス・キリストが十字架のにかけられる前の告別説教の中の一節です。

 はっきりした言葉(例えでない)で語られたイエス様に対して、弟子たちは「今分かりました」「あなたが神から来られたことを信じます」と告げました。

 しかし、イエス・キリスト様が十字架に附けられるとき、弟子たちは散らされて自分の場所に帰っていく、正に結束固いと思われていた弟子たちは空中分解してしまいます。

 人の心の奥深くを読まれる方はすでにご存知だったのです。

 私の心は、この状況を思い計らうととても辛くなります。でもイエス様は違うのです。地に属していません。このような弟子の心を知っても失望しません。

 やがて復活のイエス・キリストにお会いする「その時」、「聖霊が注がれる時」力強く立ち上がることができると信じているのです。

 主イエス・キリストの復活の力を証しする彼らに苦難(苦しみ、迫害)が襲いかかることも伝えています。世は神に敵対する勢力ですので、当然苦しみに遭遇します。

 ”でも大丈夫” ”しっかりしなさい” ”勇気を出しなさい”とすべてをご存じの復活の主イエスが励ましてくださいます。

 イエス様のことばで、弟子たちの心には,良心の呵責とか、不安とか、恐怖を感じることなく安らかになりました。

 イエス様の言われた通りだと、預言の成就をみてイエス・キリスト様に対する信仰が湧く。その信仰が湧くことによって勝利を得ることができることを知ったのです。イエス・キリスト様の心篤く丁寧に愛をもって、希望を持ち語られる言葉は、時が来て実を結ぶことを現わされました。

 ーすべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。−コリント人への手紙第113:7ー

 主イエス・キリストに学びましょう。

濱野好枝

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