説教題 ふたりの強盗(U)― キリスト信仰の中核 ―
聖書箇所 ルカの福音書23章32-43節
説教要旨
序
◇前回、十字架を真ん中にして大きく二つに分かれる人生
◇「自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ」(41)
― 信仰の中核
◇その時、イエスの十字架はすっぽりと自分の十字架と受けとめられる
(ガラテヤ2:19b,20)
◇これは耳障りの良くないメッセージかも。
しかし信仰の中核だから、聞くことより聞き方に注意しよう(ルカ8:18)
V この信仰の中核は大切な祈りの生涯を大きく二つに分ける
◇「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」(39)
◇何と傲慢な、神を畏れない態度
◇しかし、私たちもこんな態度で、心で、神に祈っていないか
◇それとも、「したことの報いを受けているのだから当たり前」(41)
と自分の罪の実相、魂の真相を認めての祈りか
◇罪は人との比較に於いてではなく、栄光の神との比較に於ける自らの闇のこと
◇この強盗は二人とも叫んでいる。叫びの祈りが全て聞かれるのか
◇問題はどういう場で、キリストに向っているか、祈っているか
◇高慢な強盗の心か、低く低くなった強盗の心の場か
◇自分には何も無い、ふさわしいのは十字架だけ ― 本当に己を低く、空しくする姿
◇この低い姿勢は最高の弟子パウロにも見られる(ガラテヤ6:14、Tコリント2:2)
◇この罪を認め、イエスの十字架を自分の十字架として受けとめた強盗は、この低い
低い位置、謙った心の位置から「イエス様。御国に入られるときには、私を心の端
に憶えて思い出してください」と祈った → 「あなたは今日、わたしと共にいます」
◇この祈りは直通の祈り ― 素面の祈り、透明な関係の祈り
◇もう一人の「自分を救え」という祈りは、自分の言い分を聞くのが当然、と権利は
自分の側にあり、神はそれを聞く義務があるという態度
◇低い心で祈る祈りは、一を願って百を、千を、万を与えられる祈り
(ヤコブ4:6、マタイ5:3)
◇口では言ってなくても、心のどこかで、神に対しつぶやき、不満を言っていないか
◇しかし今日、このののしっていた強盗こそ私だと認める時 ― もう一人の強盗の場
に置かれ「今日、あなたはわたしと共にいます」と言われる者になる
W この信仰の中核は人生の使命を決定する(ルカ9:23、Tペテロ2:21)
◇自分の十字架 = イエスさまの十字架が私(自分)の十字架
X この信仰の中核は人生の動力を決定する(ローマ6:3-6)
◇救いとは「○○してもらった」ということではなく、キリストと一つになること
◇彼の死はキリストの死、彼の十字架はキリストの十字架、キリストのパラダイスが
彼のパラダイス、キリストの復活が彼の復活となる(ピリピ4:13)
ガラテヤ2:19b,20
19b私はキリストとともに十字架につけられました。
20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
ルカ8:18
18 ですから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまで取り上げられるからです。」
ガラテヤ6:14
14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。
Tコリント2:2
2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。
ヤコブ4:6
6 神は、さらに豊かな恵みを与えてくださる」と。それで、こう言われています。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」
マタイ5:3
3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
ルカ9:23
23 イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
Tペテロ2:21
21 このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。
ローマ6:3-6
3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
5 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
6 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。
ピリピ4:13
13 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。
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